静まりの時 マタイ10・5~14〔平和の祝福〕
日付:2024年08月13日(火)
5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
イエスさまは、12人を遣わされるに際して、異邦人、サマリア人のところに行ってはいけない、イスラエルの家の失われた羊たち、すなわち同胞のユダヤ人のところに行きなさい、と言われました。行き先を指定されたのです。それは異邦人やサマリヤ人を差別されたのではなく、弟子たちの働きを守られたのだと思います。弟子たちは、限界を持つ人間です。何もかもをすることができません。何もかもをしようとすれば、いずれ倒れてしまいます。そうして結果的に何もできないことになるかもしれません。人間はできないことをしようとして、できることまでもできなくなってしまうのです。人間である私たちは、自らを限界あるものとわきまえて、できることをしなければなりません。
12人とは、12弟子のことですが、それは12使徒、そして教会を現しています。新しいイスラエルである教会です。
7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
新しいイスラエルである教会は、天の御国が近づいた、と宣教のわざを行います。これはイエスさまがなされたことと全く同じことです。教会は、イエスさまのなされたわざを行います。畏れ多いことです。しかしこの世にあって唯一神さまのわざを行うことができる喜びを教会はいただいています。
9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」とありましたが、続いて語られているのは、何も備えをせずに行け、「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」。ただで与えよ、ということと、この言葉は矛盾しています。しかし、ただで与えよ、ということは、これは商売ではない、ということであり、働く者が食べ物を得る、というのは、この恵みにあずかった者が感謝して応答することを受け取れ、ということだと思います。
11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
ふさわしさの基準はよくわかりませんが、福音を語る弟子たちを受け入れてくれる人のことと考えてよい思います。ひとたび受けれられたのなら、あちらこちらに行ってはいけない、そこにとどまり続けよ、といいます。しばらくとどまると、そのところの粗が見えてきます、また隣の芝生はよく見えてきます。そこで・・・ということはいけない、ということです。愛するということは、一つのところにとどまることによってなされることなのだと思います。
12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
平安を祈る挨拶をする。この挨拶をするということは、もともとの言葉には、抱擁する、という意味があるとある説教集に書かれてありました。日本人は挨拶において抱擁するということを習慣としていませんので、実際には難しいことです。ドイツを訪れたとき、お世話になった宣教師が、そのお母さんとしばしの別れをする場面があったのですが、大きな体の宣教師が、小さな体のお母さんを包み込むように抱きしめてしばらくの別れを惜しむ姿は、美しいものでした。身体全体で挨拶をすることは、大切なことかもしれません。
平安の挨拶をしたとき、その家がそれにふさわしければ、その平安がその家に来る。しかしふさわしくなければ、あなたがたのところに返ってくる。まるで平安そのものに実体があるようです。そうです。平安の祈りには、実体があるのです。
平安の祈りは、そういう意味では無駄になることがひとつもありません。ふさわしさが相手にあれば、そこにとどまるし、そうでなければ、自分に返って来る、自分を平安に満たす。常に平安の祈りを胸に、私たちは遣わされます。
14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
平安の祈りを受け入れるか受け入れないかに中間はないのだと思います。二つに一つなのです。それほどに、平安の祈りを大切に考えなければなりません。
足のちりを払い落せ、とは呪いのような、あるいはさばきのようなことばに聞こえます。そのように解釈されることが多いと思います。またそのほうが正しい解釈かもしれません。しかし私は、イエスさまがどこまでも愛であるお方であると信じていますので、少し別の意味はないだろうか、と思いめぐらせています。
これは、もしかすると足を踏み入れた痕跡をなくすということかもしれません。
少し話は変わりますが、先日、朝日新聞のデジタルで有料記事を読みたくなりました。一か月間お試しなので気楽にログインすると、以前にお試しをしているということで、いきなり課金されることになりました。ログインできているので、当然ですね。現代はどんなに過去のことであっても、しっかりと記録されていて、再び「お試し」の恵みを受けることができませんでした。(笑)。
痕跡がしっかりと残っていたので、再び恵みを受けることはできませんでした。しかし痕跡がなくなっているならば、また新しく恵みを受けることも可能です。
すでに以前に伝道された、しかし拒否したという痕跡が残されているならば、もはやそこに伝道されることがなくなってしまう可能性があります。しかしその痕跡がなくなっているならば、また新しく伝道がなされる可能性がある。
12人の弟子たちによっては心がひらかれなかったかもしれない。しかしまた時が改まり、別の人材が遣わされたならば、心がひらかれるかもしれない。
弟子たちにおいても、自分たちの伝道では心がひらかれなかった、またいつか別の伝道者によって伝道されたときには、宣教が前進し実を結ぶかもしれない。それに委ねよう。
足のちりを払い落としなさい、にも、人間の限界とそれを優しく見守る神さまの愛の眼差しがあふれているように思います。今日も私たちはこの神さまの愛に守られて一日を歩みます。
【マタイ10・5~14】
5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。