静まりの時 民数記6・22~27〔平和の祝福〕
日付:2024年08月12日(月)
22 主はモーセにこう告げられた。
23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。
ここで主がモーセに告げられたのは、アロンとその子らへの言葉でした。主がモーセを通してアロンとその子、すなわちアロンの子孫に向かって主が語られたのは、イスラエルの民への祝福の言葉でした。「このように祝福しなさい」と主は、その祝福の言葉を語られたのです。
しかしどうしてモーセを通して語られるのか。主はアロンに直接お語りになることができなかったのか。全能の神さまですから、アロンに直接語ることもできたはずです。しかし主はそうはなさらない。これにはモーセが召された時のことが関係しているように思います。出エジプト3,4章には、主がモーセを召される時の様子が記されています。
10 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
11 主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。
12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。
15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
(出エジプト4・10~16)
ここにおいて主はモーセを通してアロンに語り、そのアロンを通して民に語る、という筋道が整えられました。このような筋道になったのは、モーセが、自分は語ることが不得手であると語ることを拒み続けた結果、神さまは仕方なしに代役としてアロンを建てられた、ということによります。これ以降すべて、このような順序で語られるようになります。
神さまの言葉が語られる、ということは、いったいどういうことなのか。どのようにして神さまの言葉は語られるのか。またどのようにして語られたならば、神さまの言葉が語られたことになるのか。
語ることが不得手であるというモーセ。仕方なしに代役として立てられたアロン。この二人を通して神さまは語られる。このようにして神さまが立てられた説教者、その秩序の中で神さまはご自身のみこころを語ろうとされる。
教会において神さまの言葉が語られる、ということは、そこに人間の弱さ、強いられるということ、神さまの秩序、があるのだと思います。神さまの言葉は、まず自分はそのようなことを語るのに、力不足である、不得手であるということを知っている人によって語られます。また神さまの言葉を語りたいとか語りたくないという自分の気持ちではなく、神さまに強いられるということがあって語られる。そうしてその秩序の中に神さまは語ろうとされる。
教会に牧師が立てられる、ということは、さまざまな事情の中でなされています。監督制の教会や団体では、執行部の祈りの中で決定されたことがそのまま教会や伝道者に伝えられ、それをそのまま受け入れ従うということにおいて牧師は赴任します。自分たちの都合や願いとは関わりなく、決定されて牧師が赴任する。ここに神さまのみこころへの信頼がある。あるいは執行部への信頼がある。あるいは招へい制の群れも多くあります。私たちの団体は、三者合意といって、団体、教会、本人の三者が話し合いと祈りを重ねて牧師の赴任を決定していく。その話し合いと祈りに神さまのみこころがあると信じる。
方法はいろいろですが、いずれにおいても必要なことは、神さまに遣われたという牧師側の召し、と、神さまが遣わしてくださった牧師であるという教会側の信仰。この二つの信仰があって成り立つことです。
そうして立てられた牧師が講壇から語られる言葉が、神さまからの言葉。その時、その教会に神さまが語ろうとされた言葉が、語られる。牧師も、その会衆に語る。会衆も、その牧師から語られる言葉を神さまの言葉として受け止める。このようにして歴史上一回限りの牧師と会衆との出会いの中での神の言葉が語られる。これが毎週行われている礼拝での説教です。
名をはせた素晴らしいお話をされる先生の説教は魅力的で、そこに神さまの言葉が語られていると感じやすいものですが、上記の基本を考えると、自分の属する教会において、教会の秩序の中で任命され赴任した牧師が語る言葉が、その会衆にとっての神さまの言葉ということになります。
さてそのようにして語られた数々の言葉ですが、今朝の個所では、いわゆる祝祷が語られました。
24 主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
25 主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
26 主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように。』
多くの教会の礼拝では、礼拝のプログラムの最後に祝祷があります。祝福という教会もあると思います。どちらかというとこの祝福という言葉のほうが、ふさわしい言葉だと思います。牧師は、会衆のために祈るのではなく、会衆に向かって神さまから託された祝福の言葉を告げるのです。このモーセとアロンのように。
私たちの教会も、この祝福の言葉が語られます。
神さまの守り、恵み、平安が祈られる。人間にとってなくてはならないのは、この三つであると言わんばかりです。そしてこの三つはすべて、神さまの御顔からやってくる。神さまがその御顔を向けられるならば、与えられる、と祈ります。今日も私たちには、この三つ、神さまの守り、恵み、平安が豊かに注がれています。
牧師が神さまのようになって会衆のために祈るとか、会衆に祝福の言葉を語るというのを嫌う先生も多くおられます。それでこの「あなたを」という言葉を、私たち、あるいは我らと置き換えて祈られる教会もあると思います。それはそれで謙遜な感じもするのですが、礼拝の成り立ちからするとちょっと誤解があるようです。礼拝はそもそも会衆と司式者とによる交読、あるいは交唱が基本です。礼拝は、会衆と司式者との交わりなのです。その名残が、交読文、というプログラムに残っています。祝祷もその交わりが基本で、交唱がもともとの形だと思われます。司式者が祝福の言葉を会衆に語る。それに呼応して、会衆も司式者への祝福の言葉を語る。これがいつの間にか祝祷となったのだと思います。
ですから牧師が礼拝において祝祷(祝福の言葉)を語るときには、礼拝に参加している一人ひとりも、牧師の上にあるようにと心の中で祈って(語って)いただかなければならないことになります。
27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」
ここに「名を置く」という言葉が出てきました。神さまの名を置く。具体的にどのようなことであるのか。さまざまに想像が許されると思いますが、何よりも、「手を置く」つまり按手、ということにおいて、主の名が置かれる、ということが行われているのだと思います。
牧師が祝祷の時に、どうして手を挙げるのか。あれは祈りの手を挙げているのではなく、会衆の一人ひとりの上に手を置いているのです。ですから手のひらは下に向けられ会衆の上にかざされています。
教会のさまざまな場面で、手を置く、ということが行われます。いずれも、名を置く、という意味があってのことだと思います。洗礼式においても、牧師按手式においても、行われています。
【民数記6・22~27】
22 主はモーセにこう告げられた。
23 「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。
24 主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
25 主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
26 主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように。』
27 アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」