私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

静まりの時 ローマ14・17~19〔平和を求めよ〕
日付:2024年08月09日(金)

17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。

 神の国、すなわち神さまがご支配されるところ、具体的には教会生活といってもよいと思います。あるいは信仰生活そのものといってもよいかもしれません。それは、「食べたり飲んだりすること」ではない、といいます。食べたり飲んだり、ということは、この場合、和気あいあいと食事をすることや愛餐会を否定しているのではない。食べたり飲んだりということは、ここまで論じられてきた、偶像に献げたものを食してよいか悪いかということを指しています。15節に

15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

とあります。食べたり飲んだり、ということは、宗教的な戒律、人間が作った定め、と置き換えることも可能だと思います。何を食べるか、何を飲むか、そのようにして人間が作った戒律を守るか、ということではなく、神さまのご支配とは、聖霊による義と平和と喜びである、といいます。
 信仰生活が、そして教会生活が、聖霊による義と平和と喜びである。信仰をもって新しく生きるということは、聖霊による義と平和と喜びがその中心にある。教会生活の目当てには、聖霊による義と平和と喜びがある。もし聖霊による義と平和と喜びが見失われているならば、どんなに宗教的なかたちが整えられたとしても、それは的を外していることなのだ、と。

18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。

 このようにキリストに仕える人。キリストに仕えると一口に言っても、いろいろな仕え方がある、そのいろいろな仕え方がある中にあって、聖霊による義と平和と喜びを目当てとしてキリストに仕える人は、神に喜ばれる、そして人々にも認められる。
 この「人々にも認められる」は、共同訳2018では「人に信頼されます」と訳されていました。人とはこの場合、この世の人のことです。キリスト者は、この世の人から信頼される者である。教会内ではそこそこ信頼されているが、世間に出たならばまったく信頼されていない、ということではない。聖霊による義と平和と喜びが中心に求められているならば、この世においても信頼をいただくことができる。使徒の働き2章には、初代の教会の様子が記されています。

「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
(使徒2・44~47)

19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。

 では、聖霊による義と平和と喜びを求める、とは具体的にどのような信仰生活を歩むことなのか。ここに、平和に役立つこと、そして、お互いの霊的成長に役立つことを追い求める、とあります。平和に役立つこと、を追い求める。戦いを生み出すことではなく、ひたすら平和に役立つことを追い求める。それが聖霊による義と平和と喜びを求めることである。またお互いの霊的成長に役立つことを追い求める。共同訳2018では、互いに築き上げるのに役立つことを追い求める。それがまた聖霊による義と平和と喜びを求めることである。私の言動が、ともに生きる人との関係において、平和を築くことになっているだろうか、お互いを築き上げることに結びついているであろうか、と考える。それが、聖霊による、ということである。

 聖霊によって、というと、制度やかたちにとらわれず自由にそれぞれが導かれるままに、というイメージを持つこともあるかもしれませんが、ここには、平和に役立つこと、互いに築き上げることが何であるのか。義と平和と喜びを求めるのであるが、私が求める喜びと、他の人が求める喜びとが異なる場合がある。だから真の喜びは、自分勝手な喜びではあり得ない。平和が求められなければ、それは真の喜びではない。しかし平和は互いの喜びが調整されることではない。それに先立ち、義、が求められる。義とは、神さまとの関係における平和である。神さまとの関係において平和をいただいた者は、互いの間に平和を築こうと遣わされている、そこでこそ真の喜びがある。
 そのような義と平和と喜びを追い求める。そこでカギとなるのが、聖霊に導かれるということである。そうすると、聖霊に導かれる、というのは、自分の気分のままに生きることとはまったく違うことである。むしろ自分の戒め、他者を省みつつ、神さまの喜ばれることを追い求めることなのです。

 加藤先生がニケア信条の学びの書の中の「聖霊信仰のかなめ」という項で興味深いことを書いておられました。少し長いのですが、引用してみたいと思います。

「聖霊を主と呼ぶということは、聖霊との関わりにおいて神の霊をいつも主として崇めるという姿勢を保つということであると思います。聖霊を主なる神と信じることの根本的なところはどこかというと、われわれが聖霊によって支配されるのであって、自分が聖霊を支配してはいけないということです。・・・人間が教会をしっかりさせようと教理や制度を整えると、聖霊の自由な働きの妨げになるということでしょう。もっと実り豊かに聖霊によって満たされなくてはいけない。そういう信仰を持たなければならない。そのような反省というのは間違っていないと思います。しかし、そこからうっかり間違った方向に踏み出しまして、聖霊に満ちた教会を自分たちの祈りで、自分たちの熱心で造ることができると考えてしまうことがあります。・・・
 やはりそこで起きる過ちは、自分が熱心に大きな声で祈る、力に溢れた言葉を語り、人の心を揺り動かすような独特の調子で物を言い始めたりする。そこに、ある雰囲気が生まれると、み霊が働いたと、そう思ってしまうところがあるのです。私はそういう典型的な聖霊派の教会を実際に経験したのはドイツでありました。初めて異言も聞きました。興味深い聖霊体験が起こる集会でしたが、私独り冷めているというような状態になったことがあります。その時に改めて知りました。牧師が中心になってだんだんと異様な雰囲気を作っていく。そういう既成のプログラムがあると思いました。プログラム通りに聖霊が動かされていると思いました。私はその時にあとで感想を求められてはっきり言ったのは、これは聖霊をマニュプレイトする集会だから自分は問題を感じると言ったのです。この英語は「操る」という意味です。その元にあります言葉はラテン語のマヌスという「手」を意味する言葉です。・・・まるで牧師が聖霊操縦術のマニュアルを持っているかのごとく、ここでこういうふうにすれば、必ず霊が動いたような状態を作ることができると心得ている。その集会でも初めからみ霊が動いているわけではなくて、だんだん聖霊を感じられるように仕組まれている。これはとても危険なことだと思います。いつも自らを戒めていなければならない。聖霊が私どもを支配してくださるのであって、その聖霊の自由な働きに身を委ねるということをつつましく心得ていなければならないと思います。しかも聖霊のお働きに自由に身を任せるということをも心得ていなければなりません。
 しかもそのときに、聖霊のお働きはどこに見えるかということをきちんとわきまえていないといけません。何らかの宗教的な興奮状態、忘我の境に達することが聖霊の働きだとは私は思いません。そのようなことを語っている聖書の言葉もないわけではありませんけれども、そのことに基準を置くことは問題だと思います。むしろ聖書が最も根本的なところで語っているのは、私どもの自由・解放ということだと思います。」
(加藤常昭、『加藤常昭説教全集29 ニケア信条・バルメン宣言・わたしたちの信仰告白』、教文館、2006年、270頁ff)

 聖霊によって、あるいは聖霊に導かれるということは、秩序を大切にしつつ自分の主張を戒め客観視することである、ともいえるのではないか。そこでこそ、義と平和と喜びが成り立つのだと思います。

【ローマ14・17~19】
17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。
18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。


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