あなたがたに将来と希望を与えるためのもの

静まりの時 エレミヤ29・11~14〔平和を求めよ〕
日付:2024年08月05日(月)

11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 目の前の道には希望も幸せも平安も見いだせない。そんな状況の中にあって、神さまは、私たちのためにご計画を立てていてくださる。その後計画は、わざわいではなく平安を与える計画である。私たちに将来と希望を与えるためのものである、と預言者エレミヤは民に向かって語りました。
 私たちは将来を知ることができない。しかし神さまはよく知っていてくださる。神さまは永遠のお方である。神さまは、将来においても主です。
 キリスト教信仰に生きたとしても、占いのように未来を知ることはありません。未来を予知することはできない、あるいはしない。けれども、将来を知っていてくださる主に信頼して生きることができる。それがキリスト教信仰です。

 この時イスラエルが直面していた国家的な危機とは、いわゆるバビロン捕囚です。イスラエルの地に異邦人が攻め入り、城壁は崩され、神殿は破壊されました。主要な人材はバビロンの地に捕囚されていきました。
 この事態に、一人の預言者が立ち上がり預言をしたのです。

1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。
2 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。
3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの場所に戻す。
(エレミヤ28章1節~)

 このハナンヤという預言者が神さまの言葉として語ったことは、「神さまはすぐにでもバビロンの国に勝利してくださる、捕囚の民は帰還し、奪い取られたものもすべて元通りになる、大丈夫だ」、ということでした。まことに耳障りのよい、励ましに満ちた言葉です。
 これに対して、預言者エレミヤの語った預言は、現実を見据えた上での厳しい言葉でした(28章5節~)。そんなエレミヤに、預言者ハナンヤに対する預言の言葉が臨みました。その言葉の通りに預言者ハナンヤは死んでしまいました。ハナンヤは民にとって耳障りのよい言葉を語りましたが、残念ながら偽の預言者であったといわざるを得ないようです。
 そのようなことがあったのち、エレミヤは、捕囚の民に向かってあらためて主の言葉を語ります。

5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
(エレミヤ29・5~)

 異邦の地だからといって絶望することはない、その地において、家族をつくれ、子孫を増やせ、そしてその町のために平安を求めよ、その町のために主に祈れ、そうして平安に生きて行け、と語ったのです。驚くべきことに、捕囚の地を「わたしがあなたがたを引いて行かせた」町と語ります。すべては神さまの御手のわざなのです。

12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。

 どのような土地であっても、わたしに呼びかけるならば、わたしは応える、わたしを求めるならば、わたしを見いだすことができる。わたしはあなたがたに見いだされるのだ。かつてエジプトを出発した民。荒野を旅しつつ幕屋を建てながら、どこであっても主がともにいてくださると学んだ信仰の民は、約束の地に入ったあと神殿を建設し、神殿への信仰が強化されたのだと思います。しかし今バビロン捕囚によって、どこであっても神さまはともにいてくださる、主を呼び求めるならば、どこであっても応えてくださる、主を求めるならば、たとえ異邦の地バビロンであっても、主を見いだすことができる。神さまはご自身を見いださすことをお望みになっているのだ。かつての荒野での信仰を取り戻すようにと言われているようにも思います。

わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

 預言者ハナンヤは、2年で解放され回復すると語りました。それに対してエレミヤは70年と語りました(29・10)。2年先に希望を持つのか、それとも70年先に希望を持つのか。
 我慢と忍耐は似ているようで違いがあるように思います。我慢は、我を慢心する、とちょっと無理やりですが、そんな意味を想像します。自分の力のみでやり過ごすような感じです。それに対して、忍耐は、神さまへの信仰によって生まれるものだと思います。2年は多少の我慢によって乗り越えられるかもしれませんが、70年はこの忍耐が必要です。捕囚の時期を乗り越えていくためには、信仰が必要なのです。

【エレミヤ29・11~14】
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』


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