静まりの時 ヨハネ14・18~24〔隣人を愛する〕
日付:2024年08月01日(木)
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
イエスさまは、私たちを捨てて孤児にしない、と言われました。捨てて孤児にしないために戻って来ると言われました。イエスさまが戻ってこられ、私たちとともにいるということは、私は捨てられている者でも、孤児でもない、ということです。
孤児、みなしごとは、親のいない子のことですから、孤児でないということは、親を持っている子である。親とはだれか、それはここでは、「あなたがたのところに戻って来る」といわれているイエスさまのこととなります。
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
十字架に死なれたイエスさまを、「世」は見なくなる、ということだとすれば、世が見なくなったイエスさまを、「あなたがた」すなわち弟子たちは見るようになる。それは、復活されたイエスさまが生き、それによって、弟子たちも生きることになるからである。
生きる、ということは、イエスさまが生きておられることによって、私たちのうちに起こること。それは単にこの肉体のいのちをいうのではなく、神さまのいのち、そして永遠のいのちをいうのだと思います。そうすると、イエスさまを見る、ということは、この永遠のいのちに生きる者とされたものだけが可能となること、となります。
信仰に生きる、ということは、この復活のイエスさまを「見る」ことによって起こる。また信仰に生きている、ということは、このイエスさまを見ている、ということでもある。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
こうして、イエスさまが父なる神さまの「うちに」、そしてイエスさまを信じる者がイエスさまの「うちに」、そしてイエスさまご自身が、イエスさまを信じる者たちの「うちに」いる、ということが、イエスさまを信じる者に「分かる」という日がやってくる。この世は分からないのですが、イエスさまを信じる者には分かるのです。分かるから信じるのではなく、信じるから分かるのです。
21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。
イエスさまを愛している人とは、イエスさまの戒めを保ち守る人のことです。イエスさまを愛しているといいつつもイエスさまの戒めを守らない人は、イエスさまを愛しているのではありません。イエスさまの戒めとは「互いに愛し合うこと」(ヨハネ13・34)です。
イエスさまを愛している人は、父なる神さまに愛されます。つまり互いに愛し合う人は、父なる神さまに愛されます。互いに愛し合うことによって、その結果、父なる神さまに愛される、ということかもしれませんが、そもそも、互いに愛し合うということの中に生きている人は、すでに父なる神さまの愛の中にあるのだと思います。なぜなら愛するということは、罪びとである人間には不可能なことであって、それができている、とすれば、すでにそこに神さまの御手が働いていることになるからです。
父なる神さまの愛の中にある、ということは、すなわち、イエスさまの愛の中にある。そしてイエスさまご自身をその人に現わしてくださる。
イエスさまを知る、ということは、人間の能力によってできることではなく、イエスさまご自身が現わしてくださらなければできないことです。イエスさまの愛の中にあって初めて、イエスさまを知ることができる。イエスさまを知ったからイエスさまを愛し、互いに愛そう、というよりも、互いに愛し、イエスさまの愛の中にある、ということによって、イエスさまというお方のことがよく分かってくる。互いの愛に生きようとしない限り、いつまでもイエスさまを知ることにはならない。
22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
わざわざ、イスカリオテでないほうのユダ、と紹介しています。裏切る者となるユダではないユダ。すなわちこの質問は、弟子たちすべての問いであった。そしてそれは今を生きる私たちの問いでもある。
あなたを信じている者にはご自身を現そうとなさるのに、どうして世にはそうされないのか。世にこそ、ご自身を明らかにしてくださるのが良いではないか。あなたに敵対している者にこそ、ご自身を現してくださるべきではないか。
23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
ご自身を現すのは、イエスさまを愛する者に与えられる特権である、と語っておられるように思います。イエスさまを愛さない限り、イエスさまを知る、イエスさまを見る、ということは起こらない。イエスさまがご自身を現される者とは、イエスさまを愛する者である。
おおよそ神を知らない、ということは、互いに愛することを知らない、ということでもあるのだと思います。互いに愛する、ということにおいて、父なる神を、そして子なる神を知る、ということが実現するのです。あるいは父なる神を知る、子なる神を知る、と言ことにおいて、互いに愛するということは可能となるのだと思います。
【ヨハネ14・18~24】
18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。
21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」
22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」
23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。