この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか

静まりの時 ルカ10・25~37〔隣人を愛する〕
日付:2024年07月30日(火)

25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」

 普通、質問というと、抱いている疑問に対する答えをいただくためになすものです。分かっているつもりになっていないで、疑問を言葉にして伝える。そうして答えをいただく。あるいは一緒に考える。そのようにして得られた答えは、深く心にとどまるものです。質問は大切なものです。
 しかしこの律法の専門家のイエスさまに向かっての質問は、特別な意図をもってなされました。「イエスを試みようとして言った」(25)、「自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った」(29)。
 「試みようとして」、すなわち試すということ。おおよそ試す、ということは、愛する、ということと相容れないものです。この人は私を愛しているだろうか、一つ試してみよう、としてなにがしかをするならば、そうされたほうは嬉しいはずがありません。試す、とうのは、上から下になされることであり、なされたほうは、あなた何さま?、ということになるでしょう。神さまの前に立つ人間としては、もっともあってはならない態度なのだと思います。それは、かつて悪魔がしたことでした(ルカ4・2)。試みることは、悪魔にも匹敵する行為なのです。
 「自分が正しいことを示そうとして」。正しい、とは「義」という言葉です。義人は一人もいない。にもかかわらず自分でその義を示そうとする。義は、一方的な神さまから愛によって与えられるものである。にもかかわらずそれを自分で示そうとする。なんと不幸なことかと思います。
 私たちは、自分の正しさを示す、という人生を強いられてきたところがあると思います。親に対して、学校の先生に対して、こんなにも私は正しい者です、あるいは立派なものです。頑張っているでしょう。認めてください。と心の叫びをもって生きている。
 救われる、ということは、この自分で自分が正しいということを示すことから自由にされることです。何ひとつ正しいことなど証明できない。自分を正直に見つめるならば、うずくまるしかない。そんな私を神さまは、義としてくださった、のです。
 義認、という言葉があります。義と認める、ということです。それは、本当は義ではないけれども、義と「認める」という意味でとられることだとおもいます。確かに聖書にはそのように書かれていると思います(ローマ3・30,新改訳)。しかしそれはいつまでも、義とは程遠い生活をしていてもよい、ということではありません。聖書は、義としてくださる(ローマ3・30、新共同訳、共同訳2018)、とも語ります。文字通り義としてくださる。ですから私たちは救われた喜びを文字通り生きることができます。

30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

 質問者から発せられた問いは「私の隣人とはだれですか」でした。それに対してイエスさまの答えは、「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」。自分の周りを見て、私の隣人とはだれだろうか、と考えている。それに対して、自分自身が、隣人になる、ということ。自分の立っているところは一向に変えずに、隣人とはだれかと問うのではなく、自分自身が隣人になる、自分を隣人として変えていこうとする。イエスさまの問いのような答えは、それに答える者に、自分の立っているところ、を変えるようにと迫ります。イエスさまに向かって、そのみこころに生きようとするならば、必ず自らの生き方を変えることになる。そのように導かれることになる。一向に自分の生き方、人生観、考え方、こだわり、を変えようとしないならば、それはイエスさまを主としていることではなく、どこまでも自分を主としているだけの偶像礼拝者である、ということなのでしょう。

37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 「あなたも行って、同じようにしなさい」。救いは信仰によるものであって、行いではない、というのは、少し誤解を生みだす言葉です。聖書は、いわゆる行いを否定しているのではありません。健康な信仰であれば、おのずと行いを生むものです。行いのない信仰は、死んでいる、生きているのではないのです(ヤコブ2章)。
 同じようにする。独創的なことをする必要はない。すでに多くの先輩たちが、愛のわざに生きている、それを見習えばよい。良きサマリア人のように、そして多くの信仰の先輩のように、同じようにすればよいのです。

 昨日は好天に恵まれ、予定されていた教会学校デーキャンプも多くの方のご協力をいただきながら、無事行うことができました。乳幼児を含めて19名の子どもたちと、大人が22名、合計41名のキャンプでした。賛美とみ言葉、祈り、川遊び、スイカ割り、カレーライス、アイスクリーム作り、いつもと同じプログラムですが、楽しく終えることができました。感謝です。
 昨日書こうと思いつつも失念していたのですが、去る28日の日曜日の特別賛美はことさらに良い時間でした。クラリネットの音色と歌声に、よい静まりと祈りの時をいただきました。当初予定していた賛美の順序が、賛美者によって変えられたのですが、それも配慮があってのことでとてもよかったです。普段お住まいの場所が、北九州とドイツですので、かなりの遠路を来て下さいました。伴奏は教会の奏楽の姉妹でした。幾度かリハーサルが行われたのですが、息がぴったりで、かなり短時間での打ち合わせのように感じました。演奏者からも、とても良い伴奏者でした、お願いしたことをすぐに合わせて下さった、と喜んでおられました。
 そもそも特別賛美とはいったい何か。特別に賛美する。特別な賛美をする。賛美に特別もそうでないものも、そんな区別があるのか。神さまを賛美するならば、いずれであっても、同じではないか、などなど。よく学生の時など聖書研究会なので話題となったことでした。
 賛美は祈りなのです。祈りであれば、まずそこで拍手が起こるということはあり得ないことです。今回の特別賛美では、演奏者のほうから、拍手はしないでください、と注文がありました。またただ音楽を聴くということになりがちなので、演奏される賛美を、私のほうから説明させていただきました。短い文章をお配りし、演奏の間、黙想できるようにと願いました。演奏者が普段私たちの礼拝にお集いでない方でしたから、簡単な演奏者の紹介はしましたが、結局、曲の紹介、演奏、黙祷、で終わることになりました。これはとても良いことだったと思います。10分ほどのことだったのですが、深い静まりと祈りの時となりました。できれば、今後も特別賛美を行う場合は、このようにしていただけると感謝です。

【ルカ10・25~37】
25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」


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