『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです

静まりの時 使徒17・22~29〔自然の中で神をたたえる〕
日付:2024年07月20日(土)

22 パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。

 16節に「さて、パウロはアテネで二人を待っていたが、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた」とあります。二人とは「シラスとテモテ」(15)のことだと思います。パウロは、二人がやって来るのを待つために、アテネの街に滞在することになりました。いったいどれくらいの日数の間、待つことになったのか。その待ち時間の中で起こった出来事です。待つ、ということも決して無駄な時間ではありません。
 パウロは「心に憤りを覚えた」とあります。感情的な怒りは、破壊を生み出しますが、信仰に基づく憤りは、人の救いを生み出すのでしょうか。パウロはその憤りのエネルギーによって、会堂で、そして広場で毎日論じ合いました。するとその輪が次第に広がっていきます。「アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」からです。暇、は、何かを生み出す。「学校(スクール)」の語源となった「スコラ」は、暇という意味だそうです。
 そうしてついに「アレオパゴスの中央」に立ってパウロは路傍伝道を始めました。

「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。」

 これはいわゆるリップサービス、お世辞なのでしょうか。聞く人の心を開くために語られた軽い嘘なのでしょうか。私はそうは思いません。パウロは、アテネの人たちの中に、「あつい宗教心」を見て取ったのだと思います。
 異教の社会において偶像礼拝がなされるのを見て、そこに「あつい宗教心」を発見するかどうか。相手のこころを開こうとすることも大切かもしれませんが、それよりも先に私自身の心を開くことのほうが大切ではないか。あらゆる文化、その違いに心を開いていく。本当に主にある者には、それができるのだと思います。

23 道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。

 パウロは「道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ていた」といいます。いったい何をそんなに熱心に拝んでいるのか。それを見た、見ようとした、研究した、というのです。そうすると「知られていない神に」と刻まれた祭壇を発見した。熱心に拝んではいるけれども、その拝む対象について、結局定かとなっていない、そんな苦しみと悲しみの中にある、それがアテネの人たちであると、深い愛をもってパウロは見たのだと思います。アテネの人たちが、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていたのは、暇だったからもありますが、本当はそこに深い飢え渇きがあった、それをパウロは知り、福音を語ろうとしたのです。「教えましょう」という言葉は、一見、上から下、の言葉に聞こえますが、深い愛をもって語られる言葉は、相手に届くものだと思います。

24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。
25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。
29 そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。

 パウロが語ったことは、

・神さまという方がおられるとするならば、その神はすべての創造者であり、今もそのすべてを御手をもっておさめておられるはずである。それこそ神である。
・その神さまは、人間にご自身を求めさせようと願っておられる。
・そのために、すべてのものが存在している。
・この神さまは、私たち一人ひとりから遠く離れてはおられない。
・だから、このような偶像の中に神さまは存在される方だ、と考えるべきではない。

 そもそも偶像とは、異教の神々というよりも、人間の願望の現れ、反映されたもののことです。人間が、その願望のままに自由自在に左右することができる。自分の思い通りにならないならば破壊してしまってもよい。逆に願い通りを実現するならば、それに今度は囚われ縛られていく。それが偶像です。偶像礼拝と自己中心の罪とは一つなのです。
 しかし聖書は、そのような偶像は「神」ではない、と語ります。神さまはもっと大きなお方、無限のお方であり、私たちのほうがそのお方の中に生きている、生かされているのです。
 こうして生きている、生かされているために、私たちは何ができるのか。絶妙な成分バランスの空気を作り出すことができるのか、70億を超える人たちを生かすだけの空気を作り補充し続けることができるのか。環境がここまで破壊されている現代。それでも、いまだ人を、あらゆるものを生かすことができている地球は、それ自体奇跡です。
 人間も自然界も無から有を作り出すことができません。しかしこうしていろいろなものが現に存在しているということは、その最初に、無から有が作り出されたことの証拠です。無から有を造ることのできる創造者がいる、と考えるほうが合理的であり、いわゆる科学的なのではないかと思います。
 私たちは、その「神」の中に生きている。生かされている。そうであれば、何を恐れることがあるのか。こうして生かされている、ということ自体に、神さまの愛のご意志があるのです。偶像は私たちを縛りますが、まことの神さまは私たちに自由を与えて下さいます。

【使徒17・22~29】
22 パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。
23 道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。
25 また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
27 それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
28 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。
29 そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。


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