静まりの時 使徒16・25~34〔ヨナのしるし〕
日付:2024年07月05日(金)
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」(25)
当時の牢獄がどのようなものであったのか私は十分わかっているわけではありませんが、おそらく昼間でも薄暗いようなところだったでしょう。その牢獄の「真夜中」というのですから、漆黒の闇、ということばが当てはまるほどに暗黒の中に囚人たちは置かれていたことでしょう。そのような中、囚人とされたパウロとシラスは「祈りつつ、神を賛美する歌」を歌っていました。
ほかの囚人たちは、その祈りに、そして賛美の歌に聞き入っていました。聞き入るというのは、榊原康夫先生の説教集によると、ひと言も逃すまいと聞いていた、といいます。賛美の歌声の美しさもあったことでしょうけれども、暗闇の中に聞こえてくる「ことば」が、他の囚人たちにとって唯一の「光」だったのだと思います。暗黒の絶望が支配する中に、ひとたび神さまを賛美する歌声が響くならば、そこは希望の光にあふれた教会となるのです。
先日、いろいろあってびわ湖ホールに一つの音楽会を聴きに行くことになりました。タリス・スコラーズというア・カペラ、というのでしょうか、休憩をはさんで約2時間、数々の賛美の歌声に心が洗われるような時間をいただきました。中でも秘曲と言われる「ミゼレーレ」は圧巻でした。大ホールだったのですが、正面ステージとともに、4階に移動された数人の歌い手からの歌声は、大ホールが一気に礼拝堂へと変わるほどのものを感じたことでした。神さまを讃える賛美の歌には不思議な力がありますね。
「すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。」(26)
すると突然、地震が起こったといいます。ある先生は、神さまへの賛美の歌声によって、地が揺れ動くのは当然のことである、と書いておられました。「牢獄の土台」、人を縛り付ける土台は揺れ動き、「扉は全部」、ことごとく「開き」、すべての囚われ人を縛った鎖は外れてしまいました。もはや自由です。まことの賛美は、ひとを自由にするのです。
「目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。」(27)
目を覚ました、ということは、それまで眠っていたということです。賛美に聞き入っていた囚人たちにたいして、看守は眠っています。何か彼を眠らせたのか。解放を求める囚人たちにとって賛美は光でしたが、鎖につなぎとめようとする権力にとって、賛美は眠りに誘うものでしかなかったということでしょうか。
看守にとって、その囚人が逃げてしまうという事態は、自らの死をもって償わなければならないようなことだったのだと思います(使徒12・19)。彼は剣を抜いて自殺しようとしました。
「パウロは大声で『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。」(28)
看守が自殺しようとしていることをパウロは察知しました。暗闇の中にその気配を感じたのかもしれません。あるいはこういう事態に看守が自殺しかねないことをよく知っていたのかもしれません。パウロは大声で看守の自殺をストップしようとしました。
「看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。」(29)
看守はここで明かりを求めました。それまで明かりはありませんでした。すべて暗闇での出来事でした。声のみが響いていたのです。手にした明かりをもって牢の中に駆け込み、「震えながら」、恐怖しながらパウロとシラスの前にひれ伏します。
「そして二人を外に連れ出して、『先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。」(30)
いったいこれはどういうことでしょう。看守はふたりを「先生」と呼んでいます。さらに「救われるためには、何をしなければなりませんか」と問うています。この「救い」は、先ほどの自殺しなければならないような自体からの救いを言っているのではないでしょう。人生の救い、いのちの救いを求めているのだと思います。
どうしてこのような問いが生まれたのか。囚人たちが賛美に聞き入っている中、唯一寝入っていたような看守です。その心に求道の心があったとは考えにくいことです。しかしここで明らかにされているのは、彼の心にも求道の心、神さまを求める心があったということではないでしょうか。
私たちの目にはまったく求道心が見えない、そのような人の心も神さまはよくご存じです。そして導いてくださいます。私たちはいろいろと悩みますが、神さまに委ねているのがいいのだと思います。
「二人は言った。
『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』
そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。」(31~34)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。そのあとに「そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った」と続き、その後、バプテスマへと続きますので、上記のことばは、ひとりがイエスさまを信じれば、他の家族もその救いに自動的に入ることができる、ひとりの信仰が家族全員をカバーすることができる、という意味ではないでしょう。またひとりの人の信仰は、その信仰によって他の家族を救いに導く、という、そういう人間的な努力を示唆していることではないでしょう。もしそうであれば、いまだ家族が救いにあずかっていないということが、家族で一人キリスト者である私の信仰の足りなさ、ということになってしまいます。聖書は、そんなことを語っているのではありません。聖書はひたすら、慰めと励ましの書なのですから。
バプテスマを受けたあと、看守はパウロとシラスを自分の家に案内し、そこで食事のもてなしをします。食事をする、ということには、今の私たちからは想像がつかないのですが、多分に宗教的な意味を持っています。食事をともにしながら、「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」。喜びました。
暗闇の中に賛美が歌われました。賛美は看守一家の喜びへと実を結びました。神さまのなされることはなんと素晴らしいことでしょう。どのような暗闇の中にあっても賛美の歌を歌いたいと思います。
〔使徒16・25~34〕
25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。