静まりの時 ルカ11・29~32〔ヨナのしるし〕
日付:2024年07月04日(木)
「さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」(29,30)
「群衆の数が増えてくると」。イエスさまの周りに集まる人が増えてきました。自分の周りに集まって来る人が増える。語られている言葉、行われている活動に心惹かれて集まって来る人が増えて来る。それは喜ばしいことでしょう。さまざまな活動において、自分たちのところに人が集まってくる、その数が増える、ということはうれしいことです。宗教においても例外ではありません。あるいは宗教こそ、自分たちのまわりに人が増えてくることを望むのではないか。教会も教勢報告などというものがあります。何人が集まっているのか。何人が洗礼を受けたか、礼拝出席が何人増えたか、という報告がなされます。それに一喜一憂する場面もないわけではありません。増える、ということは、単純にうれしいことです。
数が増えると、さまざまな意見の人が集まります。できるだけ多くの人が気持ちよく集うことができるようにと願います。当然民主的な運営が必要とされます。話し合いの場面も増えます。この世のさまざまな組織と同じように、多数派の意見が主流となり、多数決で決することも必要とされます。あるいは声の大きな人、さまざまな意味で発言力のある人の意見で運営される場面も出てきます。できるだけ平和な運営を願うので、多数派や声の大きな人に媚びるというわけではないのですが、牧師や伝道者は、少し信徒の顔色を伺うようなことも起こるかもしれません。
イエスさまの周りにも、集まる人が増えてきたのです。そのときイエスさまが言われた言葉に私は驚きます。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです」。
なんと厳しい言葉でしょうか。いわゆる忖度、配慮、おもねり、などということは一切ありません。しかし私たちは、このように神さまに語っていただかなければならないのだと思います。私たちはこのような神さまのことばを聞かなければならないのです。あるいは神さまに造られた「私」という存在は、心の底ではこのような厳しい言葉を必要としているのです。求めているのです。
「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」(31,32)
ソロモンに対する南の女王(シバの女王)、ヨナに対するニネベの人びと。南の女王はソロモンの前にまことの謙遜を明らかにしました。ニネベの人びとは、ヨナの説教を聞いて悔い改めました。謙遜と悔い改め。ソロモンにまさり、ヨナにまさるもの、神さまをまえに、人間が為すべきことは、謙遜と悔い改めである。そう群衆にイエスさまは語られました。
自分の願望に従ってしるしを求めるのではなく、謙遜と悔い改めを自らのうちに育てようとする、学ぼうとする。それがキリスト者の信仰生活である。イエスさまはそう語られたのです。私の発言、行動、存在、それらは謙遜と悔い改めに基づいているであろうか。謙遜と悔い改めを目指しているだろうか。
〔ルカ11・29~32〕
29 さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。
30 ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。