静まりの時 ヨナ3・1~10〔ヨナのしるし〕
日付:2024年07月03日(水)
「再びヨナに次のような主のことばがあった。
『立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。』」(1,2)
神さまは、再びヨナに語ってくださいました。ヨナに対する神さまの召しは変わりません。神さまはヨナをあきらめず、再びご自身の器として用いようとなさいます。
「ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。」(3a)
ヨナは、今度は素直に主のことばに従いました。立ってニネベに行きました。
「ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。」(3b)
到着してみると、ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都でした。これがどれぐらいの大きさなのかは今となっては分かりませんが、人間の徒歩のスピードが時速5キロとすると、1日精一杯歩いたとしても6時間、掛けると30キロとなります。これの3倍として90キロ。
行き巡るのに90キロですから、直線距離ではありません。教会から近江八幡駅まで約12キロ。これだけでも行き巡ろうとすると三日では足りないような気もします。そうすると現代の地理感覚からするとそんなに大きな都ではないような気もしてきます。
大きいという感覚は相対的なものでもあるので、このことばに込められた意味は、単にサイズの大きさだけではないのかもしれません。ニネベは古代アッシリアの都市で東西の要所であり富が集中するところでもあった、ということですから、経済的にもその大きさを誇った都市であったということでしょうか。さまざまな意味で、当時のイスラエルにとっては、大きな都だったのだと思います。しかもニネベは、異邦人の地です。
そんな都に、ヨナはたった一人で神さまのお言葉を語ります。
「ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。『あと四十日すると、ニネベは滅びる。』」(4)
ヨナは「まず一日分の道のりを歩き回って」叫びました。前節によると全部で三日の道のりですから、そのうちの一日分の道のりを歩き回りました。この伝道計画が完了するためには全部で三日かかる予定です。
ヨナは「まず」語ったのです。まず語った。本格的に語るのはこの先です。まずは、語っておいた。これによって何かが起こるとは期待していない。本格的に語る、取り組みをする、そうしてさまざまな実が結ばれていくであろう、それまでは、まだ準備段階だ、そんな気持ちでしょうか。
ところが神さまは奇跡を起こされました。
「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」(5)
さらにこの奇跡は王宮にまで及びます。
「このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。」(6)
悔い改めた王は、国を挙げての悔い改めに向かいます。これを国の政策、国家事業としたのです。
「そして、王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」(7~9)
果たしてニネベの都に大リバイバルが起こりました。「まず」語っただけのヨナの言葉によって、神さまは国家的な回心を起こされたのです。
「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」(10)
トラクトを配るとき、礼拝や特別集会に友人を誘うとき、「まず」最初の一歩としての取り組み、やがて本格的な求道がはじまるための、ほんの始まり、あるいはそれに結びつけば、と願う。そんなことも多いのですが、神さまはそんな「まず」語ることをもお用いになるのです。
4章をみると、ヨブはニネベが回心したことで非常に不愉快になります。そして怒ります。自分の伝道によって目を見張る回心が起こったのですから、伝道者であればだれしもが喜ぶのではないか。にも関わらずヨブは不愉快になり怒りました。ニネベの回心が面白くなかったのです。神さまがニネベに下すと言われたわざわいを思いなおされたことが受け入れられなかった。ニネベなど滅びてしまえ、と願っていたのでしょう。
ヨナがまず語った言葉は、いわゆるニネベを愛して語った言葉ではなかったようです。むしろ滅びてしまえと、なかば怒りをもって、さばきの心をもって語ったことば。それがヨナの語った言葉だったのです。
驚くべきことは、このようなヨナの言葉さえ、神さまはお用いになられた、ということでしょう。神さまのお言葉は、語る者の心の思いをはるかに超えて、力強い愛の言葉として、宣教されるのです。
「神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」(10)
神さまは思い直されたのです。私たちの神さまは思い直されるお方です。神さまはいったん決まれば変わることのない「運命」のような存在ではありません。思い直されるのです。今の私をご覧になって、今の私にふさわしいように向き合ってくださるのです。いったんプログラムされたならば変更が効かない機械のような存在ではなく、生きて働かれるお方なのです。
異邦人の都ニネベ。その都が自分たちの信じるまことの神さまを信じて悔い改めた。下されようとしていたわざわいが、下されなくなった。異邦人の町が、まことの神さまを信じる国家として再出発した。これは、当時のイスラエルにとってどのような意味を持ったのでしょうか。ヨナ書は、イスラエルの人々に対してどのように響いたのでしょうか。
選民意識が高まる中で異邦人への蔑視は容易に想像できますが、その異邦人の国であるアッシリアやバビロンに捕囚されるという屈辱と、しかしその国で生きていかなければならない現実。非常に複雑な状況があったと思います。ヨナ書は、そのような状況のなかに何をもたらしたのか。何を神さまは語ろうとされたのか。
さまざまな意味で異邦人を受け入れていく道を示されたのではないだろうか。もしそうだとすれば、これは新約聖書を先取りしていることになります。
ヨシュア記など読むと、約束の地に入植する際、ことごとく異邦人を排除し、純粋性を保て、というような論調が多いように思えるのですが、聖書全体が語っていることは、さまざまな立場や違いを受け入れていくことが神さまのみこころなのですよ、ということなのだと思います。
〔ヨナ3・1~10〕
1 再びヨナに次のような主のことばがあった。
2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」
3 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。
4 ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」
5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。
6 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。
7 そして、王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
8 人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。
9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
10 神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。