静まりの時 マタイ12・38~41〔ヨナのしるし〕
日付:2024年07月01日(月)
「そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに『先生、あなたからしるしを見せていただきたい』と言った。」(38)
「そのとき」。イエスさまが「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人」(22節)を癒やされたことに驚く群衆。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」。それを見たパリサイ人たちは、あれは神のわざではない、悪霊のわざだ、といい、イエスさまを否定しました。それに対して、イエスさまの少し長いお話しがはじまりました。イエスさまのそのお話しが終わった「そのとき」、律法学者、パリサイ人たちの何人かが言ったのです。「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」。もうごちゃごちゃと理屈はいい、しるしを見せてくれ。
連れてこられた悪霊につかれた人をイエスさまは癒されたのですから、いわゆる「しるし」は行われたのです。しかし彼らは信じませんでした。なおしるしを見せてほしいと求めるのです。
「しかし、イエスは答えられた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。」(39a)
しるしを求める、というのは、悪い、姦淫の時代の特徴である、といわれました。
そもそも、しるしを求める、ということは、愛する、ということとは逆のことです。もし夫が妻に、妻としてのしるしを見せよ、妻らしい振る舞いがちゃんとできたならば、私がそれを認めることができたならば、あなたを妻と認めよう、と迫ったらそこに愛があるのか。妻が夫に、親が子に、子が親に、それぞれがそれぞれに、自分の満足するしるしを求めたならそこに愛があるのか。
あなたが神であるのかどうか、しるしを見せよ。私たちがそれを見て、確かに神らしいと判断できるならば、あなたを神として認めよう、などというところに愛はありません。そして信仰が神さまを愛することであるならば、そこに信仰は生まれないのです。
世にはさまざまな宗教があります。しるしを求める人びとに、求められるままにしるしを見せようとする宗教は数え上げればきりがありません。キリスト教会は、しるしを求める人びとに対して、どう答えるのか。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません」と答えられたイエスさまの言葉を語っているだろうか。しるしを求める心は、悪い邪悪な時代の特徴なのだ。真実に神さまを求め、神さまを愛そうとするならばしるしを求めることが如何に邪悪なことであるのか、愛とは真逆のことであるのかを知らなければならない。私たちは、胸を張って、勇気をもって、しるしは与えられない、と答えなければならないのです。
「ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(39b,40)
イエスさまはここで旧約聖書ヨナ書を取り上げられました。ヨナ書は預言書といいつつも大変ユニークな書物です。神さまからの召しを拒んた結果、大きな魚に飲み込まれて、結局宣教せよと命じられた地に行かされれる、というお話しです。
その魚のお腹にいた時間が、三日三晩。それになぞらえて、イエスさまはご自身の十字架と復活の間の地に葬られた三日の期間を重ねています。イエスさまはこの十字架と復活こそ、しるしである、といわれました。
病人をいやす、死人を生き返らせる、嵐を静める、湖の上を歩く、そういった数々の、いわゆるしるしを行われたにも関わらず、しるしとはこれだ、と言って指示されたのが、ご自身の十字架と復活だったのです。これ以外にしるしは与えられない、と。
このしるしを、まずしるしとして私たちは受け止めなければなりません。そしてしるしとして受け止めるならば、この十字架と復活によって、神さまを信じなければならない。もし誰かが、イエスさまに祈ったら願いがかなったのでこれからはイエスさまを信じたいと思います、といって洗礼を希望されたならば、教会は、では十字架と復活は、信じられましたか、その十字架と復活の主の前に悔い改めましたか、と問わなければなりません。いえ十字架と復活はちょっと分からないのです、ということであるならば、では、今しばらく礼拝生活を続けてみましょう、イエスさまが十字架にかかり死なれたのがあなたのためであったことを、神さまが教えてくださりますよ、復活されたお方があなたと共にいてくださることを教えてくださいます、と優しく導かなければなりません。
「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」(41)
神さまを信じるとは、自らを悔い改めるということである。信じるということと、悔い改める、ということはセットである。悔い改めのない信仰は信仰ではない。少なくとも聖書の語る信仰ではない。
ニネベの人びとは、ヨナの説教で悔い改めました。ですからニネベの人びとは、さばきのときにこの時代の人びとを、すなわちしるしを求める人びとをさばくのだ、とイエスさまは言われました。文字通り、さばくのかもしれませんが、それ以上に、悔い改めた人の存在は、悔い改めない人をさばくのだと思います。悔い改める人を見て、自分の生き方を振り返ってみる。かれらは、直接的にさばくのではないにしても、その存在が、私に語りかけているものがあるのだと思います。
ニネベの人びとが悔い改めたヨナの説教とはどんな説教だったのか。ヨナ書3章を見てみましょう。
ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。
「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。
(ヨナ3・4~6)
ヨナが語った言葉は「あと40日すると、ニネベは滅びる」。味もそっけもない言葉。しかもヨナ4章を見ると、愛を込めて語ったわけでもない、むしろ滅んでしまえ、とひたすらさばきの心で語っただけです。ところが驚くことに、その言葉に、ニネベの人びとは悔い改めたのです。国を挙げて悔い改めた。王さえ例外ではなかった、というのです。
悔い改める、というのは、素晴らしい説教、愛にあふれた言葉、説得力に富んだ言葉によるのか。もしそうであれば、それは説得されただけで、本当の悔い改めなのだろうか。
悔い改めというのは、自ら、の行為であるはずです。であれば、何かにうながされるということはあるかもしれませんが、どこまでも自分の自律的な行為でなければならない。そうでなければ真実の悔い改めとは言えない。
とすれば、このニネベの人たちの悔い改めは、まさに神さまの御業、奇跡、しるし以外にはないのです。
「しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」(41)。
ヨナにまさるもの、主の十字架と復活がここにある。そして主ご自身がここにおられる。そのお方の前に、私たちは悔い改めるだろうか。そこには説得力があるわけでもない、この世から見ればしるしどころか、ひとりの人間の死があるだけである、そして復活がある。しかしその復活も、疑いの目で見ればいくらでも疑うことができる。そのようなものを前に、私たちは悔い改めるであろうか。
しかし、悔い改めたのです。不思議に悔い改めたのです。そこに神さまの御業が起こったのです。
〔マタイ12・38~41〕
38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。
39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。
40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。