この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです

静まりの時 コロサイ1・24~28〔栄光の望み〕
日付:2024年06月28日(金)

「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(24)

 苦しみを喜びとしている、とパウロは語りました。その苦しみは自分のための苦しみではなく、あなたがた、すなわちコロサイの信徒たちのために受ける苦しみです。具体的にどのような苦しみであったのは、分かりませんが、福音宣教において受ける苦しみは、パウロにとっては、喜びであった、というのでしょう。共同訳2018では、喜んで苦しみを受けており、と訳されていました。
 喜びの材料があるので喜ぶだけならば、その材料がなくなれば喜びも失ってしまいます。しかし到底喜ぶことなどできないような苦しみを喜ぶことができるとすれば、もはやその喜びを奪うものはこの世にはありません。

 キリストの苦しみの欠けたところを満たしている、といいます。もちろんキリストの苦しみ、すなわち十字架に欠けなど一つもありません。キリストの十字架における贖いの御業は完全です。しかしこのように語るのは、不足があってそれを満たしている、というよりも、完全な十字架に自分もあずからせていただいている喜びなのだと思います。
 完璧に出来上がった料理も、それを食し味わうことによって料理としての完成を見るとすれば、完全な十字架をここで味わっているということかもしれません。

「私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」(25,26)

 パウロが教会に仕えているのは、神さまから委ねられた務めである、と語ります。自分がやりたいから、とか、それが自分にとって得だからということではありません。また行きがかり上行っている、ということでもありませんし、人から押し付けられて仕方なくやっている、ということでもありません。ひたすら、神さまから委ねられたもの、共同訳2018では「自分に与えられた神の計画に従って、教会に仕える者となりました」。
 これが分かっていないと、牧会上での苦しみを喜びとすることができません。しかしこれが分かっている、あるいは教会において伝道者も信徒も了解していると、牧会上の苦しみを喜ぶことができるのす。
 パウロが宣べ伝えている「あたながた」とは、この場合コロサイの地方に生まれたキリスト者のことです。コロサイは、小アジア(現在のトルコ共和国のあるところ)にある町でした。異邦人の町です。もともとパウロの宣教によって生まれた教会ではないかったようですが、パウロが手紙を書き送らなければならない事情が生まれたのだ、と思います。
 異邦人への伝道は、新約聖書の時代においては、画期的な出来事、革命的な出来事といってもよいと思います。しかしだからこそ、問題も起こります。旧約聖書に親しみ、その文化を理解している人ではなく、異教の習慣のなかにどっぷりとつかってきた人たちだからこその問題が生まれた、ということでしょう。
 問題の内容はさておき、パウロは、異邦人への宣教は、まさに神さまの永遠のご計画、秘められた計画、奥義であった、と語ります。

「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(27)

 福音がユダヤ人のなかで輝いている、のと同じように、異邦人のなかにも輝いている。神さまは、すべての人が救われることを願っておられる。異邦人であるあなたがたの中には、キリストが確かにおられる。異邦人であってもおられる。あるいは、異邦人だからこそおられる。このキリストは、栄光の望みである、希望である。
 希望は、将来の栄光を語っていると思いますが、それは今を生きるための力です。キリストは、信仰者にとってつねに、希望、今を生きる力です。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(28)

 このキリストを、私たちは宣べ伝えている。なにか良い教えや処世術、あるいは宗教を宣べ伝えているのではない、キリストご自身を宣べ伝えている。人格をお持ちのお方、神ご自身を宣べ伝えているのです。
 この宣教の目的は、「すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるため」です。
 成熟した者。共同訳2018では「キリストにある完全な者」。新共同訳では「キリストに結ばれて完全な者となるように」。原文では「アンスローポン テレイオン」「完成された人」。
 完全な人間になる。それが福音宣教の目的である。信仰の目標は、完全な人間になることなのです。
 エデンの園から追放されて以来、人間は不完全なのです。イエスさまはその欠けを取り除くために、十字架と復活の御業を成し遂げてくださいました。主に結ばれる者は、この欠けを埋められ、完全な者となるのです。再びエデンの園で生きる者となるのです。
 この完全には、苦しみがないというのではなく、苦しみも包括したうえでの完全です。パウロの言うように、苦しみをも喜びとするところの完全です。苦しみを喜びとするならば、もはや完全ですね。

 この信仰生活の目当てに向かって、キリストが宣べ伝えられている。私たちはキリストを学んでいる。諭され、教えられている。
 諭され、教えられることは、自分の中に知識を蓄え、より豊かで賢い者となる、ということではありません。キリストを知る、キリストを学ぶ、ということは、キリストを主とすることの学びであり、訓練です。そうして成熟した者となる。
 真理とは謙遜のことである、と幾度も学んでいます。ほんとうにキリストに学び、完全を目指している人は、限りなく謙遜です。

〔コロサイ1・24~28〕
24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、
26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。
27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
28 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。


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