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聖なる者のうちのだれのところに あなたは向かうのか

静まりの時 ヨブ5・1~18〔この世の権威と神の主権〕
日付:2024年06月15日(土)

 1 さあ、呼んでみよ。 だれかあなたに答える者はいるか。
 聖なる者のうちのだれのところに あなたは向かうのか。

 共同訳2018では「呼んでみてほしい。あなたに答える者がいるだろうか。あなたは聖なる者たちの誰に向かおうとするのか」。
 ヨブの独白(嘆き)を受けて、3人の友人の一人テマン人エリファズが応えました(4・1~)。その中の一節です。
 新改訳では少しわかりにくいですが、意味としては、ヨブの嘆きの言葉が、如何に的外れであるのかを指摘しようとしている、ということでしょう。しかしこのエリファズの答えそのものが、ヨブにとっては的外れである、とヨブは答えます(6・1~)。
 エリファスの答えは、いわゆる「正論」なのです。しかしその正論は、この時のヨブには届かない。
 朝ドラ「虎と翼」で、主人公が上司に「正論だけではだめなのでしょうか」と問う場面がありました。それに対してその上司は「正論は純度が高いほど説得力がある、力を発揮する」と答えます。その答えに主人公は、私の正論は純度が低いということでしょうか、と問い直しました。
 エリファスの答えは正論なのですが、ヨブの心に届かない。まさに純度が低いのかもしれません。

 ときどき引用していますが『現代人のための教理史ガイドー教理を擁護する』(棚村重行、教文館、2001)によると、教会というバスを走らせるための福音とそれに対する信仰は、ガソリンのようなものである、といいます。

「バスのガソリンに当たるこの『福音』の構成とは、より正確にいうと(1)三位一体神の啓示行為(教理では啓示と神学論)および(2)三位一体神の本質と位格(三位一体論)、(3)キリストの人格とわざ(キリスト論と贖罪論)、(4)救済の出来事と過程(救済論)といった客観面、主観面にわたる諸側面をもちつつもそれらを総合したものである。このような複合的要素をもつ『福音』が純度の高い優れたガソリンのようなものとすると、鉛分を多く含むガソリンは長期的に汚い排気ガスを多量に吹かしエンジンを傷めて台なしにしてしまう。混ぜ物なしの純度の高いガソリンである正統な『福音』こそ、教会バスを息長く走らせることができるのである。異端的な『福音』理解は、結局鉛分を多量に含む劣悪なガソリンのようなもので、ついには教会バスのエンジンをだめにし、その排気ガスも世界史道路で宗教的な公害問題を起こす原因となるのである。」(29頁)

 ちなみに有鉛ガソリンは、レシプロエンジンのノッキングを防止したり、オクタン価を高くしたりと、一見良い面があったのですが、排気ガスに有毒物質を含みましたので、1970年代の排ガス規制により、現在は無鉛ガソリンが主流となっています。

 ヨブに対してエリファズの正論が届かない。論理自体は正しかったのかもしれません。しかし純度が低い、鉛分が多く含まれていた、とすると、一体その問題とはなんであったのか。おそらく簡単な答えはないのだと思います。

 さて、そのうえでエリファズの語った言葉の一節に心を止めたいと思います。

「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ」(17,18)。

 神さまは試練をお与えになる。しかしそれは神さまからの叱責であり、懲らしめである。神さまはそれによって、一見傷つけるかのようであるが、それによってその傷を包み込んでくださるのだ。打ち砕くかにみえるが、本当は御手によって癒してくださるのだ、と。
 この言葉は、おそらくコリント第一10章13節などにも通じる考え方だと思います。しかしこの「正論」が苦しみの真っただ中にある人の心に届くかどうかは、言葉の正しさではなく、その言葉の純度にかかっているのだと思います。難しいことです。ただ他人から言われるのと、苦しみの中にある本人が、神さまと一対一の関係の中にあって、この言葉を受け止めることができるとすれば、それは重度の高い正論となるのではないか、と思います。共に歩む者は、正論を見失わないでいるとともに、その純度を高めるために、苦しみをともにすべく、傍らにいることが大切なのかもしれません。そこでは言葉よりも沈黙のほうがふさわしいかもしれません。

 あらためて先に引用した棚村先生の福音の構成を確認しておきたいと思います。
(1)三位一体神の啓示行為(教理では啓示と神学論)
(2)三位一体神の本質と位格(三位一体論)
(3)キリストの人格とわざ(キリスト論と贖罪論)
(4)救済の出来事と過程(救済論)
以上の客観面、主観面にわたる諸側面をもちつつもそれらを総合したもの。

 ちょっと難しいことですが、異端といわれる新宗教も聖書を読んでいますし、異教といわれる宗教の中にも聖書を引用するものがあります。聖書を土台としての信仰と一口にいっても、間違ってしまうことがある。純度の低い福音となってしまうことがある。福音の純度を保ち続けるためには、聖書を土台とすることはもちろんなのですが、その読み方が大切である、と思います。読み方といってもそんな難しいことではなく、主を礼拝しつつ読む、主に祈りつつ読む、ということだと思います。そうしてイエスさまが主であることを外さないで、読むことによって、純度を保ち続けることが可能となるのではないか。神さまの前に謙遜を見失って、自己中心に生きるところにいつも問題が起こるのだと思います。

 1 さあ、呼んでみよ。
 だれかあなたに答える者はいるか。
 聖なる者のうちのだれのところに
 あなたは向かうのか。
2 苛立ちは愚か者を殺し、
 ねたみは浅はかな者を死なせる。
3 私は愚か者が根を張るのを見て、
 ただちにその住まいを呪った。
4 その子たちは安全からはほど遠く、
 門で押しつぶされても、救い出す者もいない。
5 愚か者が刈り入れた物は、飢えた人が食べ、
 茨の中からさえそれを奪う。
 渇いた人たちが彼らの富をあえぎ求める。
6 まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、
 労苦は土から生え出ることはない。
7 まことに、人は労苦のために生まれる。
 火花が上に向かって飛ぶように。
8 私なら、神に尋ね、
 神に向かって自分のことを訴えるだろう。
9 神は、測り知れない大いなることをなし、
 数えきれない奇しいみわざを行われる。
10 地の上に雨を降らせ、
 野の面に水を送られる。
11 神は低い者を高く上げ、
 嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。
12 神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、
 彼らの手は良い成果を得られない。
13 神は知恵のある者を、
 彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、
 彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。
14 彼らは昼間に闇と出会い、
 真昼でも、夜のように手探りする。
15 神は貧しい者を剣から、剣の刃から、
 強い者の手から救われる。
16 こうして弱い者は望みを抱き、
 不正は口をつぐむ。
17 ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。
 だから、全能者の訓戒を拒んではならない。
18 神は傷つけるが、その傷を包み、
 打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。


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