人間は祈ります。祈りを捧げます。特定の宗教による祈りもありますが、それだけでなく、手紙の最後に、ご健勝を祈ります、とつけるくらいですから、何かに祈る、ということを自然にします。
キリスト教においての祈りは、他の宗教とどのように違うのか。ピリピ人への手紙の中に次ような聖句があります。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4・6)
ここに、祈りと願い、という言葉が出ています。この言葉の講解として竹森先生の説教集からの引用を読んでみたいと思います。少し長いですが以下に記しました。
最後にもう一つのことを考えてみたいのです。それは、ここに不思議な言葉が書いてあるのです。それは祈りと願いという字です。なぜ祈りと願いという二つの字が書いてあるのでしょう。祈りだけでもいいのではないか、または願いだけでもいいのではないか、と思われるかもしれません。いったい祈りと願いとはどう違うのでそうか。われわれは欲ばりですから、祈りといえば願いとしか思わないのです。だから、余計に祈りと願いというのはどこが違うのかがよく分からないのです。ところが聖書は、はっきりと、祈りと願いに違った字を使っているのであります。
まず祈りということで、すぐにわれわれが思い出すのは、主イエスがいつでも祈りをされたことでありましょう。暇さえあれば祈っておられたのではないかと思うほどに、忙しい生活をしておられながら、弟子たちが気が付かないうちにだれもいないところに行って、一人祈りをされました。どれだけ祈りをされただろうかと思うぐらい、多く祈りをされたようであります。もう一つのことは、旧約聖書をごらんになると分かります。旧約聖書は何かというとイスラエルが祈りをしたことが書いてあります。イスラエルの民はいろいろな機会に祈りをしたのです。もし、祈りと願いが同じことだとすれば、どうしてそんなにたくさん願うことがあったのだろうかということになりましょう。自分の身にひき比べてみたらわかります。われわれも願いたいことがたくさんありますが、いよいよ神の前へ出て願いをするとなると、何を願ったらいいのか、願いが出てこないのではなでしょうか。祈らないでも神は守ってくださると聞かされているのですが、神にそんなに祈らなくても、必要なものは神が与えてくださるのではないかと怠けようとするのであります。
それならば願いと違う祈りというのは何かということです。主イエスやイスラエルが絶え間なく祈ったのは、じつはそんなに願うことがたくさんあったからではないのです。つまり、願いと祈りとの区別がつけられていますように、祈りというのは願いがなくても神と一緒にいたいためにすることなのです。われわれは仲のいい友人や、愛し合っている人とは用もないのに話をしたがるのです。詩篇というのはイスラエルの祈りの本です。はじめから終わりまで祈りであります。150の大小の祈りが書いてあります。そこには何が書いてあるのでしょう。あるところには神に対する話が書いてあります。ただわたしはこうしました、こうでした、こう辛かったという話です。それから、あるところには叫びが書いてあります。お助けください、わたしはとてもやりきれません、どうしてこんなひどい目に合わされるのですか、という叫びが書いてあります。あるところには、神よ神よと言って、しきりに呼びかける呼びかけが書いてあります。またある時には、あまりきれいな言葉にならない、ただのうめきだけではないかと思われるようなことが書いてあります。ローマ人への手紙8章には、全世界も救われたいためにうめいていると書いてあります。うめきも祈りの一つになるのであります。そしてある時には、ただ泣きごとを言っているのではないか、これが信仰者なのかと思うような泣きごとを言っているのです。そういうことを読んでみてだれでも思うことはこれはみな、本当に信頼している神に対して、自分の思いのたけを語っているのだということであります。
竹森満佐一、「ピリピ人への手紙4章6節 詩編121編」、『講解説教・ピリピ人への手紙 下』、日本基督教団出版局、1990年、354頁ff
祈りというのは、ただ願い事をくちびるを通して語り伝える、ということだけではなく、神さまと一緒に生きる、ということのすべてである、ということだと思います。祈りというと願いのことである、と考えるところにすでに人間の罪が現れているのです。
祈るということそのものの持つ霊的な雰囲気、それによるトランス状態、偶像という言葉が表しているように願望の実現、ということでの祈りとは、キリスト教の祈りはまったく別物だ、ということでしょう。キリスト教の祈りは、人格を持つ絶対者に向かって、自分の思いのたけを打ち明けること、それによって神さまをより深く愛すること、そして礼拝することなのです。