交わりについて
教会の使命とその活動として、芳賀力先生は、礼拝、証し、交わり、奉仕(仕えること)の四つを挙げておられます。それはこの四つがなければ、それはキリスト教会ではない、ということであり、この四つさえあれば、それはキリスト教会である、ということでしょう。私たちの団体には四本柱「信仰、犠牲、聖潔、交わり」がありますが、この中に交わりがあるということは大切なことなのです。
交わり(コイノーニア)について、この本のなかに以下の言葉がありました。
「しかしなぜ神から与えられた交わりの場が終末論的な形式課題になるのだろう。それは、この交わりを可能にしている方との関係が失われたとたん、この「聖徒の交わり」は「罪人の交わり」に変貌するからである。肢体である一人ひとりが教会の頭であるキリストを仰ぎ見ることを忘れた瞬間、教会は罪人の集団になる。だからここでは、常に神礼拝(レイトゥルギア)が中心になければならない。「教会は、いつも新しく、まず第一に礼拝において、建てられる」(K.Barth、KDⅣ/2 邦訳該当書47頁)。この私のために十字架につけられ、私たちのために甦られた方の前にひざまずいて、古い自我を捨てるところから、コイノーニアが誕生する。それ故コイノーニアとは、厳密に言えば「キリストとの交わり」に共に与ることを意味する。」
(芳賀力、「キリスト者の自由(5)教会と礼拝」『神学の小径Ⅴ』、キリスト新聞社、2023年、335頁f)
交わりというと、兄弟姉妹の交わりがまっ先に思い浮かぶことですが、もしもキリストとの交わりが後回しにされていることであるならば、それは「教会の交わり」そして「聖徒の交わり」ではないということでしょう。途端に「罪人の交わり」となる、というのです。
具体的には難しいところです。洗礼を受けたキリスト者が交わっていれば自動的に聖徒の交わりになるのか、というとそうでもないでしょう。各自がキリストとの交わり、キリストに与る者とされている、ということの自覚が大切でしょう。新約聖書を見ると使徒たちはこのことでずいぶん苦労しているように思います。
「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
(ピリピ2・1~4)
こういうことを言われなければならなかったピリピの教会とはどんな教会だったのだろうか、と思いますが、新約聖書の一つに結集されたということは、牧師も信徒もすべての教会がこの言葉を真摯に受け止めなければならないのだと思います。