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礼拝での祈りについて

礼拝での祈りについて
2023年07月14日(金)

 キリスト教信仰での祈りは、神さまにお話しすることです。神さまは、遠くにおられる怖いお方ではなく、主イエスさまをこの地に遣わし、十字架と復活の御業をなしてくださるお方です。命を捨てるほどの愛をお持ちのお方であり、今もともにいてくださるお方です。イエスさまは、父なる神さまに向かって「アバ」すなわち、お父ちゃん、と呼びかけられました。幼子になって、全幅の信頼をもって呼びかけることのできるお方です。そのような全幅の信頼をもって祈る私たちの言葉を、しっかりと聞いてくださるお方です。
 ですから何でも祈ればよいのです。コンタクトレンズが紛失したときに祈ります。お金が無くなった時にも祈ります。試験に臨むときに祈ります。歯医者さんで歯を抜く前にも祈ります。普段の生活の中では自由に、なんの気兼ねもなく幼子になって祈ります。

 では礼拝での祈りはどうでしょうか。レイモンド・アバの『礼拝‐その本質と実際』(日本基督教団出版局、1961年発行)には次のような言葉があります。

「自由教会の礼拝はしばしば二つの犯しやすい混同によって不徹底なものとなっている。第一に、個人の祈りと共同の祈りとの間に混同があり、これはキリスト教礼拝の本質的に共同的な性質を破壊する19世紀の分裂的な個人主義の遺産である。礼拝は統一された行為であり、それは同時になされる多くの個々の礼拝行為の総計ではない。」(109頁)。

 礼拝は統一された行為である、と言います。統一された行為である礼拝は、同時になされる多くの個々の礼拝行為の総計ではないと言います。
 例えば、初詣を考えてみましょう。そこでなされている、柏手を打ってお賽銭を投げ入れその年の幸福を祈る、という礼拝行為は、個々になされています。家族で行っても、それぞれがそれぞれなりに祈って礼拝を捧げています。有名な神社には何百人、何千人という人が初詣に訪れますが、それでも、礼拝は個々になされています。何々神社では本日、初詣が行われ、何万人が集いました、といっても、それは個々の礼拝の総計を指していることです。
 これに対してキリスト教会の礼拝は、統一された行為である、と言います。お葬式を考えてみると、例えば仏式の葬儀は、簡単に言うとお焼香をあげに行っているところがあります。お坊さんがお経を唱えている間にも、その傍らでお焼香が行われているときがあります。時間のない参列者は、お焼香をあげれば帰っていきます。そういう風に、個々が礼拝を捧げるということをしているのですが、キリスト教の葬儀では、とにかくみんな会堂に、あるいは会場に入っていただいて、一緒に賛美を歌い、一緒に御言葉を聞き、一緒に祈るということをします。そういう統一された行為、共同の行為をしているのです。

 同じ書物の中に次ような言葉があります。

「個人の祈りと共同の祈りとの間にこのような混同から生ずる最も一般的な誤解の一つは、牧師であれ信徒であれ、礼拝の司式者が教会の祈りを導く代わりに、彼自身の祈りをささげるということである。」(109頁)。

 礼拝での祈りが、祈る者の個人的な祈りとなっている、ということは、個人の祈りと共同の祈りの違いが理解されていないことからくる誤解が生み出すものである、といいます。

「共同の礼拝において祈るのは会衆である。正しく理解された公の祈りは、個々の祈りの総計でも、牧師の個人的な祈りを受動的に聞くことでもなく、それは『公同の祈り』、神の民の祈りである。」(110頁)。

 別の言い方をすれば、そこに集う全ての人が「アーメン」ということのできる祈りでなければならない、ということです。
 礼拝で祈る人は、上記のことを理解している必要があります。そして理解しているだけでなく、すべての人がアーメンと言える祈りの言葉を備えているが必要です。とっさに指名されてできる人もいるかもしれませんが、よほどのことでない限り難しいのではないでしょうか。礼拝で祈る人には、準備が必要なのだと思います。

 準備された言葉を、まるで朗読するように祈るというのは、生き生きとした感じがしない、なにか儀式的で神さまの生き生きとした働きを封じてしまう、という人もいるかもしれません。たしかに、儀式的、儀礼的になってしまうということが、マンネリ化を生み出すということも事実でしょう。
 しかし例えば大河ドラマを見ていて、そこに生き生きとした命がほとばしるような演技を見ることがありますが、そのためにどれだけ多くの準備と訓練がなされているか、ということを忘れてはならないと思います。
 突拍子もない言葉が語られ、ともに礼拝を捧げている人たちの心にいらない波風を立たせ、この祈りはどういう風に続くのだろうか、いったい何を言っているのだろうか、私はとてもそうは思わないのだが、などとひやひやしている状況を生み出しているとすれば、それよりも少々儀礼的であっても安心してアーメンと言える祈りが捧げられる礼拝であることが大切なのではないかと思います。
 昔よく、それではそれぞれで声を出して自由に祈りましょう、という集いがありましたが、それはそれで良いのかもしれませんが、先に説明したように、ちょっと初詣的でお焼香的だったのかもしれません。


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