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恵みと信仰によって義とされる

 ところで、パウロが挑戦した、ユダヤ教の律法主義はどういう問題点をもっていたであろうか。一つは、律法主義は、動機はどもかく、外形だけは守ろうということになり、偽善に陥りやすい。福音書にみられるように、イエスは律法主義者パリサイの偽善性を痛烈に批判した。もう一つは、律法主義は、律法をまじめに守ろうとするのはよいが、それだけにエリート意識を持ちがちであり、とかく高慢になる。この面も、イエスによって鋭く批判された。最後に、律法主義者は律法を厳格に守ることによって、自分の努力によって救いを確実なものにしようとするので、常に一抹の不安につきまとわれる。一言で言えば、律法主義は律法の行ないによってというのであるから、人間の能動性によって義とされようとすると言いうる。しかし信仰によってという場合は、受動性によって義とされることである。神はキリストのあがないによって人間を受容するのであるが、この受容を受容する――ティリッヒの言葉を使えば accept acceptance ――これが信仰によってということであって、このような受動性によってわれわれは義とされるのである。

佐藤敏夫、『キリスト教神学概論』、新教出版社、1994年3月31日発行、231頁f

律法主義の問題点を、佐藤先生の文章から考えてみたいと思います。

律法主義のもたらす問題とは、偽善と高慢と不安である、ということです。


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