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聖なる教会を目指して 10

 つづいて第3章に入りましょう。1を読みます。

第3章 ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいでしょうか?

1 あわれみで生かされているというスタンスを忘れないようにしましょう。

 牧師、あるいは教会の役員や幹事がそれぞれの立場で奉仕が許されているのは、自分がすぐれているからではありません。教会・伝道の成果を上げたからでもありません。何の資格もない者が、ただ主の赦しとあわれみをいただいて生かされている、そればかりか、奉仕や信仰の年限が重ねられれば重ねられるほど、そのような自分が主の働きに加えていただいているという意識を深めていかなければなりません。「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」(Ⅰコリント15章9~10節)
 私たち人間は弱いので、自分が関わっていることについて時間が経つと、それをコントロールしたくなります。しかし、かつて人の上に立ちたがっていたあのペテロは、後に「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。・・・割り当てられている人たちを支配するのではなく」(Ⅰペテロ5章2~3節)と述べ、人をコントロールしたり支配したりすることが群れの形成にとって問題の本質であることを示唆しています。健全な奉仕は、人を支配しません。そこがぶれると教会は病みます。これは牧師だけのことではありません。「自分たちの召しのことを考えてみなさい。・・・神は、・・・この世の弱い者を選ばれました」(Ⅰコリント1章26~27節)とあるように、牧師・信徒を問わず、群れに属する一人ひとりが、なぜ自分は召し出されたのかを深く心に留めなければなりません。

(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、22頁f)

 私たちはみなイエスさまのあわれみで生かされているのですね。さらには罪びとでしかない者に奉仕が与えられているのは、ただ主のあわれみによるのだ、ということです。それが見失われていくと、自分の支配欲を満足させることに腐心し始めます。そうして人を、あるいは教会をコントロールし、支配し、私物化するのです。ここにハラスメントを生み出す温床が出来上がる、ということでしょう。
 自分の支配欲によって奉仕をしようとしているのか、それとも純粋に主のあわれみに感謝してさせていただいているのか、その違いはなかなか見極めることが難しいのではないかと思います。たとえば喜びを持って行っている奉仕であっても、神さまがストップと言われたら、喜んでそれを辞めることができるか、それを自分よりも上手にできない人にゆだねることができるか、その人が自分とは違う方法で、しかも自分よりも上手にしたことを喜んであげることができるか、で少し見えてくるかもしれません。


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