「キリスト教礼拝の第三の根本原理は、それが本質的に共同の行為、すなわち、孤立した個人の行為ではなく、教会全体の行為であるということである。」
(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、16ff頁)
神さまは唯一のお方であり、その救い主もただお一人のイエスさまだけです。そのお方に礼拝をささげるために皆が集まるのが礼拝です。ですから自ずとその礼拝は「共同の行為」となります。信仰は個人的な信仰告白が大切ですが、かといって信仰は個人主義ではありません。礼拝において、集まった一人ひとりが自分勝手にイエスさまに礼拝をささげているというのではないのです。それならば、それぞれ自分の家で礼拝をささげていれば良いことでしょう。教会での礼拝はともに集まるというところになされる共同の行為なのです。
ですから礼拝の時間は決まっています(笑)。仏教のお葬式の焼香は、お経の流れる中にそれぞれが行います。終わってから来る人もいます。神道の礼拝(らいはい)は、自分の都合のよい時にそれぞれがささげています。それに対してキリスト教はそうではありませんね。結婚式も葬式も礼拝なので、共同の行為を行っているのです。ですから参加者はみな会場に入っていただく必要があります。外に立っていて、呼ばれたら焼香をしに行く、ということではないです。
一緒に黙祷し、一緒に賛美を歌い、聖書交読をします。一緒に説教を聴きます。ですから今の教会に来て驚いたことの一つは、礼拝中に出入りをする人の存在でした(笑、軽く聞いてくださいね)。それでは自分がご利益をいただくために観劇か映画にでも来ているような感覚なのではないか、と勘繰りたくなりますが、それ以上に問題は、はじめて礼拝に来た人が、礼拝とは観劇か映画のようなものなのだな、と誤解してしまうということでしょう。それでは礼拝の本質である「ささげる」ということが育ちません。
「祈り」はさらに考えさせられることです。献金感謝の祈りは皆さん緊張しますね。毎回素晴らしい祈りがささげげられていることを感謝しています。もし皆がアーメンと言いづらい祈り、この祈りはどこに向かっているのだろうか、いつこの祈りは終わるのだろうか、など皆が黙祷の中でやきもきする祈りだとすれば、なかなかチャレンジです(笑)。皆が安心してアーメンといえる祈りがよいと思います。短くてよいと思います。また説教の後の祈りならば、説教に少し触れてくださるのは自然なことだと思います。しかしちゃんと要約しなければならないとまでは考えないでいいと思いますよ。説教の応答は、皆さん、それぞれなのだと思いますから、むしろ今行なわれているように黙祷はふさわしいと思います。
礼拝の原理が共同の行為、教会全体の行為である、ということは、すなわち礼拝において隣人を愛するということを始めていることなのです。