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聖なる教会を目指して 9

 つづいて第2章の8を読みます。これで2章が終わります。

第2章 ハラスメントはどうして起こるのですか?

8 健全な権威の用い方

 教会には、洗礼や聖餐、あるいは説教など、ある種の権威が伴う場面があります。権威は主から託されているという面もあります。しかし、教会で上に立つ者が、無自覚に、また安易にその権威を用いてよいかというと、そうではありません。むしろ、権威は主のものであり、自分には権威はないという自覚をもって、群れに仕えるあり方を探っていく必要があります。説教は、権威による指導ではありません。へりくだって、みことばを分かち合うことです。私たちは、新約の恵みの時代に生かされているお互いであり、その究極のモデルはイエスさまです。
 教会では、権威はへりくだりによって表現されることを心に留めておきたいものです。威張れば、その場は良いように見えても、権威は失墜します。神さまの前に自分を持ち上げることをせず、自分を下げることもせず、ありのまま自分を受け入れていくことです。役割上、人をリードしてまとめていかなければならない立場に置かれるからこそ、そのようなところから生み出される真実さをもって人と関わることが、主にあって期待されていることなのでしょう。
 牧師・信徒を問わず、責任ある奉仕が委ねられても、権威は自らのものではないことを心に留めておきたいと思います。

(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、20頁f)

 権威は人からつけてもらうもので、自分で「私には権威がある」と思い始めるとそれは権力になるでしょう。権力は恥ずかしいものです。
 洗礼や聖餐は、按手によって権威づけられていることは、以前に書きました。説教とともにそれは「役割」であって、自分自身に何か能力があるということでは全くありません。主からの権威によってなされることです。ですから按手とは別に、それらがなされ始めると、とたんに権力が生まれることになります。
 説教は、分かち合いなのです。説教者自身が恵まれたことを分かち合うことなのです。説教者は説教を指導と勘違いしてはいけません。説教者は自らが罪びとの頭であることを忘れてはいけないのです。
 「真理とは謙遜のことである」というアビラのテレジアの言葉をどこかで引用したと思いますが、謙遜のない聖書のお話しには、真理がありません。
 牧師は、自分の語る説教や礼拝での祈りによって信徒から恵まれました、祝福されましたと言われるとうれしいものです。しかしそこには誘惑があります。牧師の説教や祈りも、牧師が如何に謙遜であるかに、その真実さがかっています。礼拝のプログラムには、交読がありますが、礼拝式は基本的に前に立つ者と会衆との交唱によって行われるものです。祝祷もこの交唱の中にあります。ですから祝祷で牧師が「あなたがたの上に神さまの祝福がありますように」と祈るのは、決して教祖のように自らが祝福を与えようとしているのではなく、そのように祈られた会衆から「牧師さんの上にも神さまの祝福がりますように」との祈りが期待されているのです。ですから牧師が謙遜からだとは思いますが「我らの上に」とか祈るとこの意味が分からなくなってしまうのですね。
 健全な権威の使いからは、2千年の教会の歴史の中でしっかりと検証されてきていますから、歴史を学べは良いのだと思います。

 さて、これで第2章が終わりました。次回は第3章に進みましょう。


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