お茶の時間が終わりました。つづいて第2章の7を読みます。
第2章 ハラスメントはどうして起こるのですか?
7 宗教という大義
パリサイ主義に対してイエスさまが言われたことは、真の宗教は人間を自由にするということでした。信仰は信じる者を自由に、健全に、そしてある意味で「普通」にします。ところが、教会の構成メンバーが直観的に「おかしいな」と感じることがあっても、そこに宗教的大義がつくと、「でも信仰のことだから」ということで、いつのまにか良いことになってしまいます。レリハラ(レリジャス・ハラスメント)が社会的に指摘されるようになった背景にはこのことがあります。
献金のことが問題になる場合もあります。献金のアピールは、行きすぎると、レリハラと取られかねません。献げる人は神さまのためにという思いで献げ、牧師・教会は献げられた献金を神さまから委ねられたものとして真実に運用すべきものです。ですから、献金のアピールは双方が健全だとうなずける許容範囲の中でなされるべきではないでしょうか。(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、20頁)
献金のことは、確かに大切なことであるとともに微妙な問題を生み出すものだと思います。そんな中信徒の方が祈る献金の祈りには励まされます。毎回そうなのですが、先日の礼拝での献金の祈りはとくに感動しました。
ある説教集の中に紹介されていた献金の祈りを以下に紹介します。
「私どもの心に、あまりにも献身、犠牲の心の少ないことを赦してください。私どもの貪欲の現れでしかない、この貧しい献金を赦してください・・・あなたは死においてさえ、ご自分のいのちを与えていてくださいます。貧しさの中であなたの富を、私どもに与えていてくださいます」
礼拝のプログラムはすべて献身の現れなのですが、とくに献金の時は、それが鮮明になります。だからこそ、ハラスメントにならないような配慮が必要となるでしょう。
「宗教的大義」は、献金のことだけではありません。さまざまな信仰生活において考えさせられることです。このなかで「信仰は信じる者を自由に、健全に、そしてある意味で『普通』にします」が心に留まりました。信仰を持つと何か超能力でも持ったかのような「何ものか」になるというのではないのですね。