「礼拝(Worship)とは何であるか。・・・神を礼拝するとは、神に最高の価値を帰すことにほかならない。詩篇の詩人の言葉をもっていえば「み名の栄光を主に帰す」ことである(詩篇29・2)」
(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、7頁)
昨年の退院後に、あらためて読み始めた本で、いまはほったらかしになっている本に『礼拝―その本質と実際』(レイモンド・アバ)があります。ずいぶん昔に読んだ本ですが、いのちに限りがあることを知らされた者として、この地上にあるときに、真実の礼拝をささげることをあらためて学ぶのもよいことではないか、と思ったようなことです。少しずつ本文を紹介しつつ、思い巡らせていきたいと思います。
同労者の皆さん。何はなくても礼拝さえしっかりと聖書的にささげられているならば、私たちの役目は果たされることになるのだと思います。逆にどんなに活き活きとした教会成長がなされていたとしても礼拝が聖書的でなければ、役目を果たしたことにならないのではないかと思います。
まず礼拝とは、神さまの御名の栄光を、神さまご自身に帰すことである、と記されていました。それは具体的には私たちのささげ物によってなす行為である、ということです。旧約聖書では、動物の犠牲がささげられました。しかしキリスト教の礼拝では動物の犠牲はささげられません。それは完全な犠牲として、神の御子イエスさまの十字架上の犠牲がささげられたからです。それで私たちが礼拝でささげるささげ物は、賛美のいけにえ、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13・15)、となりました。礼拝におけるすべてのプログラム、賛美、聖書朗読、献金、説教、黙祷、などなどすべて、いけにえ、供え物なのです。洗礼の水も、聖餐式のパンとぶどう汁もそうです。
私たちは、イエスさまの十字架上の自己犠牲に対する応答として、これらをささげます。しかし同時に、これらが、私たちを創造し、あがない、今日まで守って下さった神さまの「至高なる価値」を表すには不十分である事を知っています。ですから、私たちは、礼拝において私たち自身を献げるのです。礼拝のすべてのプログラムは、私たちの献身の表れなのです。
「・・・しかし、それもまた、いっそう深い意義をもっている。すなわち、キリスト者の供えるもう一つの供え物―わたしたち自身という供え物のしるしであり、象徴であるということである。これこそ、あらゆる真の礼拝の頂点にほかならない。わたしたちのための、キリストにおける神の自己犠牲に対する応答として、わたしたちは讃美と祈りと供え物とをささげるのであるが、これらすべてのものも、わたしたちを創造し、あがない、今日まで守りたもうた神の至高なる価値を表すには不十分である事を知っている。それゆえ、わたしたちのささげ得る最大の供え物はほかならぬわたしたち自身である(ローマ12・1)」
(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、10f頁)