先日、JEAの会議に出席したときに、議案書の最後に「JEA総会議事運営規則」というのもがついていました。実は、団体や教会のために総会運営規則というのを作ったことがあるのですが、正式な文書にしないままになっています。
前文に「教会の本質における一体性と、福音宣教という使命における一体性を現実に表すために集まっています」という、自分たちがどのような方向に向かっているかということが明らかにされています。そして「同じキリストの体に属していることを認め、互いに力を合わせ、福音宣教と教会形成のために協力するよう努めています」と続き、聖書の言葉が記されています。
「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ4・2,3)
このエペソ書の言葉は、以前の訳では「互いに忍び合い」と訳されていたので、「互いに偲び合い」と誤解してしまえたのですが、新しい訳では原文通り「忍耐する」という意味が明らかにされました。一致のためには「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」「平和」が必要なのです。
このような総会議事運営規則が生まれる背景はさまざまに想像できますが、ときに総会が混乱してしまったことがあった、ということでしょう。議論が白熱してくると、人間はどこまでも罪びとであり、たとえ伝道者であっても「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」「平和」に生きることが難しくなってしまうことがあるということでしょう。
この前文に続いて、総則では「総会は主への礼拝をもって開閉します」という文章があり、それ以降細かい決まりごとが記されています。
例えば、「討論は反対、賛成を繰り返すことによって行います」とあります。当たり前のことですが、この規則文の項を見ると「議員が発言しようとするとき、発言者(起立している)がいない時に、挙手をして『はい』あるいは『議長』と呼び、議長に指名されたとき、起立して、(自分の名前を言った後に、)発言してください。(発言を終えたら着席して下さい。それによって発言権を次の人に譲り渡すこととなります。)」とあり、ほかにも6項目の細則がついています。勝手に話し始めてしまうひとがいた、ということでしょうか。討論は反対、賛成を繰り返すことによって行うことは当たり前のことなのですが、気が付けば、その当たり前のことができていないことがある、ということでしょう。なかなか面白いことです。
また、「原案に対する修正の提案(動議)があれば、下記の手続きを経て議題とします。この際、原案の審議を十分に行ってから取り上げます」というのもあります。この規則文にも8つの項がつけられています。修正の提案(動議)として「修正提案(動議)は、その案を備え、二名以上の発言者(セコンド)が連署して、議長に提出しなければなりません。但し、簡易なものは議場で陳述することができます」。つまり新しい提案をするときには、二名以上の賛同者が必要である、ということでしょう。総会には120名ほどが参加します。それぞれにいろいろな意見を持っている可能性があります。一人の人でも状況によっていろいろな意見を持つものです。もしその意見がすべて動議として出されたとしたら、採決にたどり着くまでに膨大な時間と労力がかかることになります。これでは「御霊による一致」、「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」「平和」とは程遠い状態になるでしょう。(もしかしたら参加者の「寛容」は鍛えられるかもしれませんが)。
今回のJEA総会でも、3人の議長が立たってくださり、スムーズに会議を進めてくださいました。お疲れさまでした。またご準備くださった諸先生方に感謝したいと思います。
教会は、大海原を航行する船のようなものです。実際に礼拝堂をシップと呼んだこともあるそうです。自動車はあるていどアクセルとブレーキ、ハンドル操作で機敏に進路を変更することができます。それでも高速走行での急ハンドルは、危険なことですし、周りの車両をも危険にさらすことになります。ましてや大きな船ともなると、進路変更は、はやくから予定していなければ難しいことでしょう。気象や海流を知り、他の船や岩礁を見つけ、安全な航行の中に目的地に向かわなければなりません。乗員、乗客のすべてのいのちが、その安全性にかかっています。すべての乗員、乗客が、気象や海流、他の船や岩礁を知ることができるとよいのですが、そうもいきません。熟練した技術集団である船長、航海士、その他船のスタッフが責任感をもってかじ取りをします。他の乗客は安心して彼らに任せて船旅を楽しみます。
少し前に北の地で大きな事故が起こりました。たくさんの方々がその貴い命を奪われました。無念だと思います。また家族の喪失感はどんなに大きなことだろうと想像します。船のスタッフにとって、経験と知識、責任感がどれだけ大切なことであろうか、と考えさせられることでした。
私たちの教会には、幸い熟練した船のスタッフのような信仰者がいてくださいます。教会にはいろいろな意見が出てきます。それはそれで大切なことです。しかし教会につながる100名以上の方々の信仰生活が、健やかに安全になされるために、この熟練した信仰者の存在は、大きな安心を生み出しています。私はちょうど受洗40年、伝道者となって30年がおわったのですが、あまり熟練しているとは言えないなあ、と反省することしばしばです。