人間が罪を犯す時には、いつでも、言い訳があるものです。それは、大抵は、事情がよくなかった、ということであります。もしあのことがなかったら、この罪は犯さなかったであろうに、とか、もし、あの人があの時にあそこにいて、あれをしなかったら、とか、弁解には事を欠かないのであります。つまり、罪を犯すのには、それなりの事情があるもので、環境が不十分であることが、罪を犯させるのである、ということなのであります。そこから、今日では、人間は、お互いにかばい合って、だれの罪についても、真の責任を問うことはしないのであります。みな、それ相応に、罪を犯す事情があると思うからであります。「彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ書6・14)というのは、まさにこのことでありましょう。お互いに、浅くしか傷を見ないために、ほんとうにいやされることはないのであります。
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問題は、事情にあるのではなくて、その人にあるのであります。
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ダビデの罪は、バテシバに対するものであり、ウリヤに対するものでありました。それなのに、なぜ、ただ神に対して罪を犯した(詩篇51・4)、というのでありましょうか。
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彼(ダビデ)は、神に造られた人間であります。彼のすることは、全部、神に対して責任のあることであります。たとえ、自分が罪を犯した、当の相手に対して謝罪したとしても、なお、神に対する責任が解決されないかぎりは、どうしようもないことであります。
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(ダビデは)彼(神)がお喜びになるいけにえは、ただ砕けた魂であることを知っておりました。砕けた魂とは、神に帰った魂であります。神に対する責任を、真に知ることのできた魂であります。ダビデが、のちに、ある所に参りました時、サウル王の一族のひとりシメイという男が出て来て、ダビデをさんざん罵倒する話が、サムエル記下16章5~14節に出てきます。家来たちは憤慨しましたが、ダビデは、何も言わずに、あれは、主がダビデを呪え、と言われたのだと言って、一層深く、自分を謙(へりくだ)らせたというのです。
アレキサンダー・ホワイトという偉い説教者がありましたが、この人がこう言っています。自分は子供のころ、日曜日によく、ダビデがゴリアテを倒した話を読んで喜んだものであったが、大人になってからは、ダビデが、シメイに罵倒されて、謙遜になる話が好きになった。自分の子供たちも、そうなってほしいと思っている、と言うのであります。
ダビデが、真に謙遜になったのは、シメイから侮られた時ではなく、この罪(バテシバとのこと、ウリヤを卑怯な方法で殺したこと)を犯して、預言者ナタンに、叱責せられた時であったのであります。竹森満佐一、『ダビデ―悔いくずおれし者』、日本基督教団出版局、1975年、133頁ff
今日は礼拝後、幾人かの方から(といっても大体1~2人ですが)、先生元気になられましたね、と言っていただきました。「ええ、昨夜はカレーライスを食べました」とお答えしておきました。カレーライスは塩分が多いということで、なかなか食べる勇気が出なかったのですが、昨夜は、いわゆる普通のカレーライスを食べることができました。感謝です。
実は、元気の理由は、ほかにも思い当たることがあるのです。それは教会の役員さんが、日々祈りをもって支えていてくださり、また具体的にさまざまな労を惜しむことなくお献げくださっていることを感じるからです。昨日も役員会があり、今日も礼拝後、役員会を開いてくださいました。また会議の中では、時に激しくも力強い言葉を聞くことができたからです。
「・・・むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」(黙示録3・15)
熱い言葉が、私のからだにしみこみ、カレーライスとともに、元気にしてくれました。もちろん冷静な力強さも必要ではありますが(笑)。
さて、日曜日の午後、礼拝CDの整理などをしつつ、久しぶりに竹森先生の講解説教集を眺めていました。上記は第二サムエル記12章1~15節からの説教の文章です。「・・・であります」がたくさん出て来て、ちょっとあれですが、臨場感あふれる説教で、実際に礼拝堂で聞いてみたかったな、と思わせる言葉です。
今日も説教でお話ししていましたが、イエスさまは「赦し」を語ってくださいました。しかし「安易なゆるし」が語られてしまう、つまり、悔い改めを伴わない、自分の罪に向き合わない、事情の責任や誰かの責任にしている、自分は被害者の立ち位置から一歩も出ようとしない、そこに、もしゆるしが語られるとするならば、それは「許し」になってしまうのです。そのゆるしは、決して「いやし」をもたらしません。また、いやしをもたらさないばかりか、そののちには倫理基準がなくなり、交わりが破壊されていくことになるでしょう。
ダビデは、預言者ナタンの言葉に、悔い改めました。その経験が、後々謙遜な生き方を築いていったのだ、と竹森先生は語られました。家来たちが憤慨するようなシムイの呪いの言葉に対しても、謙遜に耳を傾ける人になったのです。
人間は、罪を犯さないことも大切なことですが、それ以上に大切なことは、罪を犯したときに、悔い改めることができるかどうか、なのです。
それにしてもこの第二サムエル記12章に登場する預言者ナタンは輝いています。ナタンは、一国の王に向かって「あなたがその男です」と罪を指摘したのです。斬って捨てられたかもしれません。追放されたかもしれません。自分のどこが悪い、と居直られたかもしれません。しかしナタンは力強く語ったのです。その言葉が、ダビデを真に生かすものとしました。そのような言葉が語られるところが教会なのだと思います。