審判者イエス
「こうして、裁判ならざる裁判は終了した。この章を閉じるに当たって、物語全体の驚くべき特徴がわれわれの注意を引く。この物語を学ぶ者は、誰でも、まさに眼前において立場が入れ替わり、自分が見ているのは、カヤパ、ピラト、ヘロデの裁きのもとに置かれたイエスではなく、イエスの裁きの前に立つカヤパ、ピラト、ヘロデであるとの不思議な思いを抱くのである。すべてのことが完了し、囚人となられたかたがゴルゴタへ連行されたとき、彼らによって裁かれたのは、イエスではなかった。イエスに裁かれたのは彼らであった。人の子は彼ら各々ーーカヤパ、ピラト、ヘロデーーに向かいあって、しばらくともに立たれた。すると、人の子の探照灯が彼らの魂に照射され、彼らの最も深淵の本性を開示し、全世界、全時代に見られるように彼らの正体を暴露した。暗い多事なその夜の真の裁判官は、キリストであった。そして、カヤパ、ピラト、ヘロデがその夜立った場所に、あらゆる魂は、どれも、人生行路のどこにおいてもーー決断の場においてイエスと対面しつつーー立たなければならない。すべてのよい生活の主について、各々の魂がくだす判断は、深く厳粛な意味において、各々の魂に対するキリストの判決となる。」
J・S・ステュアート、『受肉者イエス その生涯と教え』、椿憲一郎訳、新教出版社、1979、278頁
十字架に架かられたイエスさまは、その前に裁判を受けられました。ときの宗教家、政治家、王の前に立たされ、裁かれたのです。しかし聖書を読めば読むほど、イエスさまが被告として裁かれたのではなく、むしろ被告として裁かれたのは、彼らの方で、まことの審判者としてお審きになって下さったのはイエスさまご自身である、とステュアート牧師は語っています。そして今日、あらゆる人生の道において、私たちはつねにこの、カヤパ、ピラト、ヘロデが立ったのと同じ場所に立っている、イエスさまと向かい合っている、というのです。
一つの決断をする、一つの言葉を語る、一つの意見を主張する、という時に、私たちはイエスさまと対面しているのです。そこでの私たちの判断は、深く厳粛な意味において、自分自身の魂に対するイエスさまの判決となるのです。
イエスさまが傍らでお聞きになっていて首を傾げられるような言葉を語らないようにしたいと思いますが、それ以上に、今私の語った言葉は、実はイエスさまに向かって語っているのだ、ということを忘れないでおかなければなりません。
誰かに向かって、あなたのそこが間違っているのですよ、と語ったとして、それをイエスさまが傍らでお聞きになって下さっている、というだけではなく、実はその言葉を、イエスさまご自身に向かって浴びせてしまっている、ということを忘れない、ということです。そういう意味で誰かを裁いたとたんに、実は自分自身が裁かれているということが起こっているのです。
これはもう誰に対しても否定的な言葉を語ってはいけない、ということではなく、自分はそういう罪人なのだ、ということを忘れないということなのだと思います。
・・・
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
・・・(吉野弘 「祝婚歌」より)