新聖歌279番 「悩みの時に」
奏楽の姉妹の一人がこの賛美歌をある時特別賛美として歌ってくださいました。それまでこの賛美歌を知りませんでした。とても感動したことを思い出します。
『讃美歌第二編』の232番から240番まで「ドイツ・ミサ」が、田中彰寛という方の訳で掲載されています。この田中彰寛という方は、牧師の家庭にお育ちになり、長く関西学院大学で教鞭をとられた方と、関学のWEBサイトのありました。ご専門は神学ではないようですが、讃美歌第二編の作成に参加されたとのことでした。
曲はフランツ・シューベルトと記されています。あの音楽の時間に聴いた野ばらや魔王のシューベルトですね。
歌詞はヨハン・フィリップ・ノイマン。この人は物理学者でもあるように記されていましたが、ほんとでしょうか。以下にドイツ語ミサ曲の説明がありました。
http://pietro.music.coocan.jp/storia/schubert_tedesca_messa.html
さてこの1節を読んでみたいと思います。
悩みの時に、誰にぞ頼らん
嬉しき時に 誰に告ぐべき
ああ主よ 主こそ わが救いなれ
悲しみを去り 慰め給う(新聖歌279)
讃美歌第二編232も書き出してみたいと思います。
なやみのときに たれにぞたよらん(小さい「ん」)、
うれしきときに たれに告ぐべき、
ああ主よ、主こそ わがすくいなれ、
かなしみを去り なぐさめたもう(ちいさい「う)。
同じです。当たり前ですが。
ただ四行目が新聖歌では「慰め給う」と漢字が使われていますが、もともとの讃美歌第二編はすべてひらがなで「なぐさめたもう」記されています。
歌うごとに「悲しみを去り」という文章に少し違和感をもっていて、悲しみよ去れ、みたいな意味に勝手に解釈して歌ってしまっていたのですが、やはりここでは「悲しみを去り」、つまり「悲しみ」「を」「去り」、悲しみから去るのは自分自身である、というのが歌詞の意味のようです。
私が、悲しみに向かって、悲しみを去れ!、と命じているのではなく、悲しみという感情に固執、固着する私が、信仰を持って、そこから離れていく、それが意味かなと思いました。
そうすると、それに続いて「慰め給う」は、悲しみから去るならば、神さまからの慰めが与えられる、という意味のように思えてきます。「たもう」の漢字は、「給う」でもいいのかもしれませんが「賜う(たもう、たまわるの意味)」のほうがしっくりくるのかもしれません。