教会に出席することは、神さまによって召されたことであって、自分が選ぶということからは自由にされる、ということを前に書きました。そのことからすると、今度は逆のことを書くことになるかもしれませんが、教会を選ぶということの大切さを考えてみたいと思います。
人生のさまざまな変化の中で居住地を変えるということが起こります。そんな時少々遠くても、集うことになった教会を大切にすることはよいことだと思います。しかしあまりに遠すぎたりした場合は、近くの教会に出席し、信仰生活、礼拝生活を守ることは大事なことです。その場合、ぜひできれば転入会をして、つまり会員籍をいただいて信仰生活をすると、お客さんでよいという誘惑から守られることになるでしょう。
引っ越しした先にいくつかの教会があった場合、どの教会に出席するのがよいのか、とりあえず出席した教会に参加し続けることがよいことなのか、いろいろと迷うこともあるでしょう。同じ群れ、つまり教団、教派であれば迷うことも少ないかもしれません。しかし超教派的教会で育った者にとっては、同じ群れと言われてもよく分からないものです。またそもそも同じ群れの教会がないという地域に引っ越しすることもあるでしょう。そんな時は、とりあえずいくつかの教会に出席することがよいと思います。そうして、自分の信仰にあった教会を「選択する」ということがよいと思います。もちろん自分が選択することになったとしても、そこに召されたという信仰が必要だと思いますが。
ではどういう基準で教会を選べばいいのか。一、二回参加しただけでその教会がどのような教会であるかを知ることができるのか、など、疑問が生まれます。
異端と呼ばれる宗教であれば見分けやすいのですが、昨今問題となっているのは、福音派の教会におけるカルト化でしょう。福音派と掲げていても、内実はかなりカルト的な教会も存在するでしょう。あるいはそこまでいかなくても、どこか不思議な部分を持っている教会も多いことでしょう。
私は、聖書がきちんと語られている教会がいいと思います。
当たり前と言えば当たり前ですが、聖書がきちんと語られている教会とは、教理的にきちんと語られている、使徒信条において告白していることが、聖書の解き明かしにおいてきちんと語られている教会、ということです。
つまり聖書の言葉は、まるでお札のようにたくさん語られているけれども、よく聞くと教理的にキリスト教会とは言えないのではないか、と疑問を抱く教会では困る、ということです。
これは、教会にすでに集っているものとしても、とても大切な視点です。とくに伝道者、牧師、説教者は、毎回、聖書から福音を語るということがとても大切なのです。自分の語る聖書の解き明かしが、しっかりと教理的説教であるかどうか、を常に問いかけておかなければなりません。
以前にも書いていると思いますが、キリスト教は、啓示宗教です。自然宗教ではありません。たとえば礼拝で、昨日祈っていれば神さまが聞いて(「効いて」あるいは「利いて」か?)くださったのですよ、という言葉が講壇から語られるとします。それは素晴らしいことですが、はじめて教会に来た人がその言葉を聞いたとき、他の宗教との区別をどのようにつけるのでしょうか。もし区別がつかない、あるいは、聖書の神さまの方が本当の神さまなのですよ(これは大切なことですが)、ということでは、結局、コンビニでどれが一番おいしいおにぎりだろうかということの選択とあまり変わらないところで、信仰を選択するということが起こるかもしれません。
ですから聖書を語る時に、十字架と復活を語る、神さまの一方的な愛を語る、ということがとても大切なこととなります。
十字架と復活などちょっと難しいので、入り口としては、とにかく祈りが聞かれるとか、慰めや平安が与えられるとか、そういうことで教会につながっていただきそのうちに、教理的なことをお話しすればよいのではないか、という人もおられるかもしれませんが、私は入り口はとても大切だと思っています。そもそも入り口で得た経験は生涯ついて回るものですから、最初機嫌よく集っていても、そのうち小難しい教理のことをいい出すと、またいつか聞くことにしよう(使徒の働き17・32~)、といって去ってしまわれることもあるでしょうし。あるいは、十字架と復活はもう少ししてから語ろう、などと言っているうちにその方が死んでしまわれたら、私たちは天国にってイエスさまに申し訳が立つのでしょうか。どうして十字架と復活のことを語らなかったのか、と問われるかもしれませんし、問われなくても、私は後悔すると思います。
イエスさまが、礼拝に出席してくださっていて、礼拝が終わると、隣の人に向かって「これは何の宗教ですか?」と尋ねておられる姿が想像されるようでは、困りますね。もちろんいつもイエスさまは礼拝に出席していてくださるのです。というか、私たちはイエスさまを礼拝しているのです。
ということで、教会を選ぶときに、聖書からきちんと教理が語られている教会につながることが大切だと思います。