教会は「教える会」と書くので、なにかを教えるところ、集まる人は何かを学ぶところ、という印象を持ちます。しかし聖書の中で教会と訳されている言葉は「エクレシア」で、これは「エク」(~から)と「カレオー」(召す、呼ぶ)がくっついた言葉です。集められた者たちの集まり、というような意味です。神さまによって呼び集められた人たちの集まり、それが教会なのです。
何のために呼び集められたのかと言いますと、いろいろな意味があると思いますが、何よりも神さまを礼拝するために集められています。ですから教会では礼拝を欠かすことがありません。何がなくても礼拝を大切にします。
福音派は、個人的な救いの確信、信仰の告白、ということを大切にします。それはとても大切なことだと思いますが、では、なぜ教会があり、教会に集うのか、ということについては、あまり教えられていないところがあるように思いますが、いかがでしょうか。
よく教会に集う意味を「薪が一本で燃えているよりも、多くの薪がともに燃えているほうが、よく燃えるでしょう。それと同じで、信仰も一人よりも多くの兄弟姉妹とともに、また礼拝も一人でささげるよりも、たくさんの兄弟姉妹たちと献げるほうがよく燃やされるでしょう」という説明をされたことがありました。しかしこれこそ、教会に対する大きな誤解を生み出す原因となっているといわざるを得ません。
もし教会が暖炉のように個人の信仰が燃やされるための「道具」であるならば、当然、よりよく燃える暖炉、すなわちより多くの薪のある暖炉のほうが燃えるわけで、うちの教会は小さくてあまり燃えないからもっと大きな教会に行こう、人数は多いのだけれども燃やされることがないので、もっと燃えている教会に行こう、ということになるでしょう。あるいは、燃えていないと感じる教会に対して批判的になったり、こんなことなら家で一人で礼拝をささげた方がずっと恵まれる、そういえば今はテレビやインターネットでよいメッセージが聞けるから、その方が信仰が成長するに違いない、ということにもなるかもしれません。そうして教会の意味がどんどん見失われていくことになります。
聖書では教会のことをどう語っているのでしょう。
「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1・22~23)
教会とは、キリストのからだである、と聖書は語ります。それはからだという器官を例にして、教会組織を説明するために、そう語られているのではありません。教会がキリストのからだである、ということは、教会は信仰の対象である、ということです。ですから使徒信条で以下のように信仰告白をしています。
「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会・・・を信ず」
私たちは、聖なる、つまり神さまのものとされた、公同、公に同じ、教会を信じているのです。
信じるということは、愛するということでもあります。神さまによって召された兄弟姉妹を信じ愛するところ。それが教会なのです。決して愛しやすいお互いではないかもしれません(笑い)。だからこそ愛を働かせる場所となりうるのです。もし好き寄りの集いであれば、愛など働かせる必要もないでしょう。イエスさまが弟子を召されたときに、もしかすると顔を合わせればたちまち喧嘩が始まるような人びとを集められたことを思い起こさなければなりません。
イエスさまご自身が、私をこの教会に呼び集めてくださったところ、それが教会です。私の個人的な信仰が燃やされるために、私が選んで集っているということであれば、集いの根拠は自分自身でしょう。しかし私が好むと好まざるとにかかわらず集うことになったところであれば、集いの根拠はイエスさまご自身です。自分を土台とした教会生活なのか、それともイエスさまを土台とした教会生活であるのか。この違いは大きいです。健康な信仰生活を送れるかどうかの違いとなります。
たしかにイエスさまを信じている、十字架が私の罪のためであったと信じている、悔い改めて自分の罪の一切が赦され、天国への希望をいただいているかもしれません。けれども、教会がイエスさまによって召していただいたところ、という信仰がなければ、結局のところ本当の平安は生まれないのではないでしょうか。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(ヨハネ15・16,17)
私が選んだ、私の握力による信仰生活には限界がありますが、イエスさまのほうが私たちを選んでくださったと聖書は語ります。ですからこの選びから決して漏れることがありません。
福音派に起こるさまざまな問題の多くは、この部分に負うところが大きいのではないかと思えてきます。そしてそれは、ローマ・カトリック(公同)教会を否定して生まれたプロテスタント教会の宿命かもしれません。だからこそプロテスタント教会の一つである福音派においては、教会論はとても大切にされなければならないと思います。