, ,

マタイの福音書2章1~12節、三人の博士 考察

今年(2021年)の12月19日の礼拝では、マタイの福音書2章1~12節から学びます。これは教会学校の聖書箇所に倣ったものです。私たちの教会学校では『成長』のテキストに従って学びがなされています。『成長』のテキストとは、いのちのことば社から発行されている教会学校教案誌です。

東方から三人の博士たちが星に導かれてはるばる旅を続けてきました。動く星がとどまったところに主イエスさまを発見し、礼拝をささげました。
この礼拝をささげるようすが挿絵として描かれているのですが、そこに描かれているイエスさまは、立ち上がっておられ、恐らく2歳ぐらいであろうと思われる姿として描かれていました。よく見かける三人の博士たちが礼拝をささげる絵などでは、イエスさまは、布にくるまった赤子の姿に描かれていますので、この立ち上がっておられるイエスさまに少し違和感を覚えました。

ヘロデが2歳以下の男の子を皆殺しにしようとしたことや、三人の博士の出来事が公現日に祝われることなどを考えると、赤ちゃんイエスさまというよりも、誕生からよほどの日が経過したのちに、三人の博士たちが礼拝したと想像できますので、2歳ぐらいになっておられるイエスさまという方が聖書的なのかもしれません。しかしなぜか私は違和感を覚えました。

竹森満佐一牧師が、この個所の説教の中で以下のような文書を記しておられます。

「この博士たちが最後に致しましたことは、キリストを礼拝したことであります。ここにもまた、この博士たちのクリスマスの旅をよく示す出来事があります。彼らはここまでまいりましたけれども、そこにはただ赤ん坊がいただけであります。偉そうな格好をした王様はいなかったのです。しかし彼らはただ、神に導かれてここにきたことを信じておりましたから、その前に額(ぬか)ずいて礼拝することができたのであります。そしてこの御子を礼拝しました時に、彼らのこの旅の本当の意味がそこに明らかになり、彼らがここにクリスマスの本当の意味を知ることができただろうと思います。・・・」

(竹森満佐一、『講解説教 降誕・復活』、新教出版社、1992年4月30日発行、85頁)

クリスマスの本当の意味とは、御子を礼拝するときに明らかになった、御子を礼拝することのできる信仰に生きるときに明らかになった、というのでしょう。ですからクリスマスメッセージでは、だれもが王と認めるような力強く偉大な存在に礼拝をささげることではなく、だれもが見過ごしてしまうようないと小さく、弱く、はかない存在に、そこに天地万物を創造された神さまのお力を発見して、礼拝をささげる者となる、ということを語ることです。

先の成長のテキストの挿絵では、イエスさまの姿が、生まれるとすぐに立ち上がって語り出した聖徳太子みたいな姿になんとなく見えてしまうので、違和感を覚えたのかもしれません。2歳ぐらいに描いてもよいのかもしれませんが、立ち上がっておられる姿よりも、あどけなく無邪気に寝っ転がっておられるような、つまり弱い姿、小さな姿の方がしっくりくるのかもしれません。

ちなみに加藤常昭先生のこの個所の説教の中では以下のような文章がありました。

「この博士たちは三人だと言われています。人数は聖書に書いてないのです。どうして三人かというと、ただ、贈物が三つ、11節に『黄金、乳香、没薬』と三つ並べてあるからです。・・・この三つの贈物というのも、これはいったい何を意味するのであろうか。これもさまざまな解釈があります。たとえば黄金は、王のしるしである。乳香は、これは祈りの時に用いられるものと考えられるので、神さまのしるしである。没薬は、よく死体に塗られるので、これは、主イエスの死のみ(御)苦しみを表すというのです。私はそういう解釈も、また捨て難いものだと思うのです。しかし、最近書かれましたある注解書を読んでおりまして、心を打たれることにぶつかりました。これはかなり学問的な書物ですけれども、その学者は、きちっとした学問的な研究をした結果、自分はこの贈物について、こう考えると言っているのです。ここに『宝の箱』と書いてあります。これはむしろどういうふうに申しましょうか、日本語に訳すならば背嚢と言った方がよいかもしれません。リュックサックです。旅に出て歩く時に、いつも肌身離さず着けているような、そういう袋でした。その中に入っているこの『黄金、乳香、没薬』というのは『宝』と書いてあるから、何かいつもはどこかに大事にしまっておいたり、どこかに買いにいったりして手に入れる宝物を考えるかもしれないけれども、そうではなくて、この博士たち、つまり星占い師たちの商売道具であった。これをリュックサックに入れまして、あちらこちらへ行って商売をする。商売とは何をするかというと占いをして歩くのです。おまじないをして歩くのです。・・・それを主イエスに献げてしまったということは、どういうことか。彼らは自分たちの間違いを認めたのです。ここで星占いを捨てたのです。だからこそ、いつも今まで大事に肌身離さず持っていて、商売道具にしていた、その生活の手だてを、皆、幼な子イエスの前に献げてしまったのであります。」

(加藤常昭、『マタイによる福音書1 加藤常昭説教全集6』、ヨルダン社、1990年5月30日発行、58頁f)

これも私には心惹かれる解釈の文章でした。自分にとって大切なものを、きらびやかな王の前ではなく、飼い葉おけに寝ておられる幼な子にささげた、自分を生かしてきたものをすべて幼な子の前にささげた。献げるというのはそういうことである、それがクリスマスに学ぶ礼拝者の、献げる者の姿である、というのです。2レプタをささげた女性にも共通するものがあります。

ときおり私たちは自分の献げたものがどのように利用されているか、有効に使われているだろうかということに敏感になります(笑)。しかしそれは献げているというよりも、自分の支配範囲を拡大しているだけで、ちっとも自分の手から離していません。それは献げているとはいえないのかもしれません。ただイエスさまのご愛のみによって生かされていくことの喜びを大切にしたいと思いました。


投稿者:

タグ: