ハイデルベルク信仰問答の「問一」に対する「答」の前回のつづきは以下のようになっています。
主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さるのであります。
(イザヤ43・1、ローマ14・7,8、ヨハネ15・16)
『ハイデルベルク信仰問答』、竹森満佐一訳、1961年5月20日発行、8頁
私が主のものである、ということの根拠がここに記されています。その根拠とは「主は」という言葉で始まりますので、主語は「主」です。私が何をしたか、ではなく、神さまが何をして下さったのか、そこに「私が主のものである」と告白できる根拠がある、というのです。私の何かによって、私が神さまのものとされた、というのではないのです。
主イエスさまがいったい私に何をして下さったのか。そのことが私に分かっているかどうか。それがキリスト教信仰の始まりである、あるいは基礎であるというのでしょう。私の日々の信仰生活、さらには私の人生を支えているのは、主がなしてくださったことによる、ということを明らかにしていくということです。
私たちは、案外、自分が何をなしたか、何をなすか、ということを第一に置きがちなのかもしれません。
神さまはいったい何をして下さったのか。一日の始まりにおいても、祈りにおいても、主が私に何をして下さったのか。まずそのことを明らかにしていくのです。