キリスト教会では、信仰の教育を「信仰問答」という形で行うことを大切にしてきました。「問」がありそれに答えるという形、あるいは答えがあって、その答えを受け容れる、という形で教育を行ったということです。カトリック教会ではそれを「カテキズム」、プロテスタント教会でも「信仰問答」という形で、現在でも手軽に読むことができ、また多くの教会で用いられています。教会ではそのエッセンスをマニュアル化して信徒教育を行うということも多いようです。私にもそれができればいいのですが、残念ながら私にはその能力も人生の時間もありませんので、著名な信仰問答や信仰の良書から思いつくままにお分かちしてみたいと思いました。
かつて神学校に学んだとき、ある授業で神学を学ぶ道のりを教えられました。ふだん優しい先生が、神学を学ぶ目的は、主イエスさまのしもべになるということである、伝道者の人生はこの世の栄光や誉れをすべて棄て去ることである、もしそうではなく、自らの誉れをどこかに想定している者がいるならば、即刻お帰り下さい、と、少し唐突に神学生に向かって語られたのです。勉学の面ではかなり厳しく鍛えられる神学校でしたが、信仰の訓練ということではあまり厳しくないな思っていたので、この言葉は新鮮に私の心に響き、それ以降も時折思い出すことです。
神学は、学ぶということでは他の多くの学問と同じです。しかしその目的はまったく違います。自然科学にせよ人文科学にせよ、多くの学問は、それによって自らの誉れ、あるいは自らの高まりというようなことを目的とする部分を持っています。しかし神学の目的はただ一つ「謙遜」です。神学を学べば学ぶほど、謙遜になっていく、へりくだっていく、自らは何と知恵や知識のないものであろうか、ということを知っていく、そうして神さまの前に真実の礼拝を献げる者となっていく、共に生きる人びとの前に謙遜に生きる者と変えられていく、それがキリスト教神学の目的であり実りです。
ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(ピリピ2・1~5)
これが神学の目的であるということです。
さて、ハイデルベルク信仰問答から少し見てみましょう。私の手もとにあるのは、竹森満佐一先生の訳されたものですが、最近では神戸改革派の吉田先生が訳されたものや、そのほかにもいろいろと解説書があるので、ぜひ興味がありましたら手に入れて読まれるといいのではないかと思います。
この中の「問一」と「答」は以下のようになっています。
【問一】 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
【答】 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。
まず、ここで明らかにされることは、信仰者の人生の慰め、ただ一つの慰めが、どこにあるのか、ということです。それは、自分という存在が、自分のものではなく、「わたしの真実の救い主イエス・キリストのものである」ということ、そのことが私の慰めである、と明らかにされている、ということです。
聖書の語る信仰に生きるということは、自己中心から神さま中心へ、という180度の方向変換をするということですが、ここで、自分が自分のものではなく、イエスさまのものである、ということをこの信仰問答では明らかにします。
このハイデルベルク信仰問答は問いが129まであるのですが、もしかすると、この問一がしっかりと心におさめることができるならば、後の問いはすべてスムーズに誤解なく学べるのではないかと思います。しかしここでつまずく、あるいは十分にこころに納めることができないとすると、あとあと難しい部分が出てくるのではないかと思います。
私たちは、自分が、自分のすべてが、神さまのものである、イエスさまのものである、そこに慰めを、本当に得ているでしょうか。それこそ私の慰めである、と告白する者でしょうか。逆に、イエスさまを私のもの、イエスさまを私の所有とすること、私の手の中に握りしめ、私の自由にコントロールすることのできるものとするところに慰めを得ようとはしていないでしょうか。この違いは大きいです。
祈りにおいて、イエスさまのみこころを求める者でしょうか。それとも自分の願望のままに神さまをコントロールしようとする者でしょうか。礼拝に「ささげる」という視点でのぞんでいるでしょうか。そうして神さまのものとされる、という姿勢を持っているでしょうか。それとも、自分がなにかを「得る」ということに焦点を置いてしまってはいないでしょうか。神さまがどのようにお思いになっておられるのか、に焦点を置いているでしょうか。それとも、自分がどのように思われているかに焦点を置いてしまってはいないでしょうか。
このコロナ禍にあって、オンラインでの礼拝が盛んに行われるようになりました。私たちも頑張って行っています(笑)。様々な事情の中で、ともに集うことの難しい中で、礼拝を行うことができるということは本当に素晴らしいことであり、また大切なことであると思っています。しかしここでも神さまが中心か、それとも私が中心がの問いが発生しているように思います。自分がイエスさまのものとされているということに慰めを見いだしているか、それともイエスさまを自分のものとしていることに慰めを見いだそうとしているか、という問いです。
聖餐式のことで、いろいろと牧師間でやり取りをしたことが、少しですがありました。プロテスタントでは、パンもぶどう汁も、聖餐を受ける信徒が自分から手を出します。しかしカトリック教会では、主のお身体であり血を、自分から手を出して取ることは普通はありません。司祭がパンを、私の口に入れてくれる、自分はただ受ける、ということが大切にされています。プロテスタントの場合は、衛生的な問題も加味されているのかもしれませんが、いまオンラインでの聖餐式では、パンやぶどう汁の準備も信徒がそれぞれにするという教会もあり、そこではさまざまなパンとぶどう汁が食されて、聖餐式とされています。はたしてそれは聖書の語る聖餐の在り方なのだろうか、と考え込むこともあります。
説教もかなりの教会やグループ、あるいは伝道者と呼ばれる人たち、さらには自称伝道師という人たちが、配信しています。信徒は「自由に」それを「選ぶ」ことになります。テレビのチャンネルのように。コンビニで缶ジュースを選ぶように。それは本当に自分がイエスさまのものにされようとしているのか、それとも自分の中にイエスさまを取り込もうとしているのか、また考え込むことでもあります。
文明の機器が前進する中で、便利になることは大切なことですが、ますます自分がイエスさまのものとされる、といことが難しくなっているように思います。いまいちど、私の慰めは、イエスさまを私のものとするのではなく、私がイエスさまのものとされることである、とあらたに告白したいと思います。