今朝の「聖書愛読こよみ」(2021、日本聖書協会)による聖書箇所はイザヤ書46章3,4節でした。
新改訳聖書2017で読んでいるのですが、3節の翻訳は以下のようになっています。
「胎内にいたときから担(かつ)がれ」
この「担(かつ)がれ」と読んだとたん、かなりの違和感を感じてしまいました。多くの聖書は「担(にな)われ」あるいは「負われ」と訳されていますが、この新改訳2017では、上記のように訳されているのです。
確かに意味はそれで分かるのかもしれませんが、礼拝において「かつがれ」と朗読されたとき、礼拝をささげる人たちの心にはどのように響くのでしょうか。私のようによこしまな者は、ああ神さまがカツイでおられるのだ、などとよからぬことを考えてしまいます。Goo辞書では「担ぐ」は以下のように解説されています。
1 物を持ち上げて肩にのせ支える。になう。「荷物を―・ぐ」「鉄砲を―・ぐ」
2 自分たちの組織や集団の代表者の地位に据えて押し立てる。祭り上げる。「最年長者を会長に―・ぐ」
3 からかって人をだます。一杯食わせる。「友人にうまく―・がれた」
4 縁起を気にする。迷信にとらわれる。「―・ぐ性分」「験 (げん) を―・ぐ」
つまり、聖書の語ろうとしていることは、上記の「1」ですが、「3」や、さらには「2」の意味に取ってしまう、まあそんな人はいないといわれるかもしれませんが、礼拝で読まれる聖書朗読は、礼拝おいて敬虔さを醸し出すものであってほしいと願いますので、ちょっとこの聖書は礼拝では読みにくい感じがしますが、いかがでしょうか。