先生、牧師、牧師先生

ときおり牧師会などで、教会の中での兄弟姉妹の呼称、牧師の呼称について意見が交わされたりしますので、私なりに思うところを書いておきたいと思います。

むかしある宣教師の牧会する教会で、互いに敬称なしで呼び合おう、ということになったそうです。海外では一般的には敬称がありませんし、親しい中ではファーストネームで呼び合いますから、そのような親しさをアッピールしようということだったのでしょう。牧師も信徒からファーストネームで呼ばれます。それはそれで悪いことではないと思います。

さてその教会に、日本人の伝道者が赴任しました。早速ファーストネームで呼ばれることになりました。信徒が牧師に向かって敬称なしで呼んだのです。当然、その伝道師は驚きとともに深く傷つきました。

これがあらわしていることは、日本の文化の中では、敬称は大切なことである、ということでしょう。

敬称には、その人の職務を表すために用いるものと、愛をこめて豊かな人間関係を期待して用いるものとがあります。

例えば、学校の先生であれば、職務は「教諭」でしょう。あるいは「教頭」「校長」という方もおられます。しかし多くの場合、これらを敬称としては用いないで「先生」を使います。教頭や校長の場合は、教頭先生、校長先生と呼ぶのが一般的でしょう。それは職務とともに、愛をこめて豊かな人間関係を期待しているからでしょう。ましてや生徒たちは、かならず「・・・先生」と呼びます。自分たちが教えを乞い指導を受けるという立場を前提としているからです。そこには尊敬ということも含まれています。

宗教の世界でも、ローマ・カトリック教会では、指導的な立場の方は職務としては正しくは「司祭」です。しかし「・・・司祭」などとは式以外の場面では呼びません。多くの場合は「神父さん」と愛と尊敬を込めて呼びます。仏教でも、僧侶を「お坊さん」と愛と尊敬、親しみを込めて呼びます。

ではプロテスタント教会はどうでしょうか。「牧師」というのは職務をあらわず言葉ですから、多くの場合は「・・・先生」と呼ぶのが一般的でしょう。韓国などでは「・・・牧師先生」とさらに丁寧に呼ばれるそうです。ということは「牧師」ということばだけで呼ぶと、呼ばれた方はどこか冷たい印象を受けることになるでしょう。呼ばれたほうとしては、この方は、ただ職務としての関係だけを求めておられる、つまりそこで愛と豊かな人間関係、尊敬ということが期待されている関係を築きたいとは思っておられないのだな、と感じることになります。きっとどこか信仰的な正義感(どういう正義感であるのか理解に苦しみますが)をもって「牧師」と呼び捨てにしておられるのだと思いますが、若い牧師は、そう呼ばれるごとに自分は尊敬されていないのだな、と感じ、傷つけられ続け、結局、牧会に行き詰るということがあちらこちらで起こっているようです。

こだわりにあふれた信仰的な正義感が結局、牧会者を破壊し、教会を破壊しているということは、これは免疫不全のようなことでしょうか。プロテスタント教会急進派には往々にして見られる現象ではないかと思われます。

ということで、牧会者の皆さん。「・・・牧師」と呼び捨てにされた、と心痛めているのは、あなただけではありません。その言葉をできるだけ記憶にとどめないようにして、決して相手は尊敬心を持っていないわけではないと思い込んで、頑張ってほしいと思います。それにしても限界はいつか来ますが。


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