pxl_20210116_025342943

同労者の皆さんへ。日夜、牧会活動、お疲れさまです。主の日の説教準備、週日の集会のみ言葉の準備で、忙しい毎日を送っておられることでしょう。説教準備こそ、牧会者のなすべき第一のことです。牧師、伝道師以外に、この奉仕を担うことのできる者はいません。どんなに聖書的な知識があり、教える力があり、言葉巧みに話をすることができたとしても、神さまに召された牧師、伝道師以外の言葉は、いわゆるお話しなのです。逆にどんなに聖書知識や教える力が貧しく、言葉巧みに話をすることができなくとも、罪びとを悔い改めに導き、救い出す力の御言葉を語ることを、主イエスさまが託してくださったのです。会衆や自分自身からの否定的な言葉を真摯に受け止めながらも、信仰を持って御言葉を語りましょう。

さて御言葉の奉仕に加えて、あるいは御言葉の奉仕の一環として日々牧会配慮に労されていること、お疲れさまです。教会にはいろいろな方がお集いでしょう。いろいろな方が集っていよいところ、それが教会です。暖かく、愛をもって迎え入れていきましょう。そのために、牧会者はさまざまな人間の心について少なからず学ぶ必要があるでしょう。

その一つとして「パーソナリティ障害」について学ぶことは、良い牧会をするためにも、また自分自身のありようを理解し、様々な危機的な状況から守られるために大切ではないかと思います。以下に、一つの書物を紹介し、その一節を抜き書きしておきます。

明日の主の日に向かって静まりと備えのきょう。少しコーヒーブレイクのお供にしてくださればと思います。

 まず、パーソナリティ障害の人の特徴は、「自分に強いこだわりを持っている」ということである。口に出していうかいわないかは別にして、パーソナリティ障害の人は、自分に囚われている。それが、すばらしい理想的な自分であれ、みすぼらしく劣等感にまみれた自分であれ、自分という強迫観念から逃れられないのだ。自分についてばかり語りたがる人も、自分のことを決して他人に打ち明けない人も、どちらも、自分へのこだわりという点では同じである。

 もう一つの共通する特徴は、「とても傷つきやすい」ということである。健康なパーソナリティの人には、何でもない一言や些細な素振りさえ、パーソナリティ障害の人を深く傷つける。軽い冗談のつもりの一言を、ひどい侮辱と受け取ってしまったり、無意味な咳払いや、雨戸を閉める音にさえ、悪意を感じて傷つくこともある。

 この二つの特徴は、現実の対人関係の中で、もう一つの重要な共通点となって現れる。つまり、「対等で信頼し合った人間関係を築くことの障害」である。それは、さらに、愛すること、信じることの障害にもつながる。どのタイプのパーソナリティ障害でも、愛し下手という問題を抱えている。尽くす愛、溺れる愛、貪る愛、押しつける愛、試す愛、愛せない愛・・・そのタイプはさまざまだが、愛の歪みやバランスの悪さが、当人を、あるいはパートナーや家庭、安定した幸せから遠ざけるという点では、同じである。

 以上の目安がそろっていれば、そこにはパーソナリティ障害が存在していると考えて、ほぼ間違いないだろう。

岡田尊司、『パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか』、PHP研究所、2004年7月2日発行、「第一章 パーソナリティ障害とは何か」、34頁f


投稿者:

タグ: