カール・バルトは、『聖書の権威と意義』という論文の冒頭において、次のような意味のことを述べている。ある子供が多くの婦人の中で特定の婦人を自分の母だと呼ぶ理由をその子供に尋ねると、その子供の答えるすべては、この婦人こそ自分の本当の母だという命題をただ繰り返し確認するだけであろう。彼女がその子供にとって自分の母であることは疑問の余地のない事柄なのである。それと同じように、聖書の権威ということも、キリストを信じる者にとって議論の余地のない事柄なのであり、自己自身に根拠をもつ自明なことであって、それ故ただ繰り返し確認するだけである。この言葉の中にこれから論じようとしている聖書の権威の問題の核心が語られている。
(佐藤敏夫、『キリスト教神学概論』、新教出版社、1994年、42頁)
顔が似ているから、とか、DNAで証明できたからとか、いうことではなく、そういう一切の理屈を超えて、自分の母を認識するように、聖書が神さまのお言葉である、聖書には権威があることを、キリスト者は確認しています。間違っても、読んでみると確かに神さまの言葉としてふさわしいと感じるとか、私はそのように思い込むことにした、とかということではありません。
一体権威は権力と次の点で違っている。権力は強制によって人を服従させるものであるが、権威は自発的な服従をひきおこすものである。例えば眼科の権威といわれる町の医者のアドバイスには町民は喜んで従う。よく権威を押しつけるという言い方があるが、押しつけなければならないものは権威でも何でもない。権威は反理性的なものでなく、むしろ理性を納得させ、自発的服従を引き出すものである。
(同、42頁)
聖書の権威といった時にも、この論は当てはまります。なにがしかの権力をもって神の言葉であるとしても、それは自発的な服従を引き起こす権威ではないので、人を動かすことがありません。
聖書の逐語霊感説においては聖書の真の著者は聖霊であり、人間は聖霊の示す所を書き記す書記にすぎないというのである。そうなると聖書はそのまま啓示と等置されることになる。たしかに聖書は聖霊との関係についてつぎのように教える。「聖書は、すべて神の霊感をうけて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(第2テモテ3・16)。また次のようにも言う。「(聖書の)預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(第2ペテロ1・21)。しかし、これらの聖句を特に逐語霊感説的にとる必要はないであろう。そのようにとれば聖書と啓示は等置されるが、聖書は啓示の人間的証言であって啓示そのものではない。聖書はあくまで神の言葉を伝達する道具なのであって、それ以上のものではない。したがって、聖書と聖霊の関係を逐語霊感説的に考えることによって、聖書の権威を基礎づけるのは適当ではない。
(同、44頁)
つまり、聖書はいわゆる「おふでさき」ではない、ということです。神憑り(かみがかり)になって恍惚状態になった人が、まったく無意識に書き記したものではない、ということです。聖書は、歴史に生きた信仰者たちが、その信仰によって書き記したものである、ということでしょう。
それでは、どういう意味で聖書は霊感をうけて書かれたのであろうか。それに答えるに当たって、まず霊感とは何かについて吟味しなくてはならない。
(同、44頁)
「霊感」という言葉も、ずいぶん独り歩きしている言葉です。キリスト教会以外の世界でも、あるいはキリスト教以外の世界でこそ、盛んに語られている言葉でしょう。ですから教会で「霊感」といわれるときも、聖書の語る霊感と、一般的に語られている霊感とがごっちゃになっている場面もしばしばみられることです。
ティリッヒによれば、霊感はエクスタシー(脱自)の一種である。エクスタシーは理性の否定ではなく、理性がそれにおいて自己自身を超える。すなわちその主観客観構造を超える、心的状態である。それは強い感情的側面をもつが、それを感情に還元するのは間違いであって、それは同時に認識的側面をもつ。それは脱自的な経験における認識理性の非反省的な純粋な受動性を強調するものである。
(同、44頁)
主観、客観構造を超えるもの。つまり、何かの学問を修めた者が、その成果をまとめた客観的な資料というものでも、そこから自分の主張を論じた論文のように主観的なものでも、いずれでもないということです。
この言葉には二つの混乱と歪曲がともなう。よく誤解されることであるが、一つは、霊感をうけることを、なにかをやってみようという気分の高揚を感じるとか、あるいはあるアイデアを思いつくとは、あるいは突然の直観によってあることがぱっとわかるとかという風にとるべきではない。
(同、44頁)
霊感によって書かれたということの誤解として、なにかびびっと来た、とか、上から降りてきた、などということではない、ということです。
もうひとつは、霊感を、聖霊の語る所をそのまま書きうつすとか、聖霊によってぱっと示されるとか、そんな風に解すべきではない。すでに述べた逐語霊感説がこれらの一つにあてはまることは明瞭であろう。
(同、44頁)
先に述べたように「おふでさき」ではないといことです。
聖書が霊感によって書かれているということは、著者が純粋に受動的な認識理性によって啓示を聞き取ることによって聖書が書かれているということである。
(同、44頁f)
聖書は、信仰者たちがその信仰の歩みの中で「受動的な認識理性」によって啓示を「聞きとること」によって書かれたものである、ということです。ですから聖書の書かれた初代教会の置かれた状況、社会情勢、著者の気質、文化、最初の読者の状況、などを知らないと、簡単に誤解してしまう書物でもあるということも言えます。
最後に聖書が自己証明力をもつということは、必然的に聖書の自己解釈という思想に導くということについて一言したい。というのは、聖書が自己自身を保証するものであるとすれば、聖書解釈の基準を他に求めることはありえないからである。・・・聖書を通して働く聖霊こそわれわれに正しい聖書解釈を可能にする。そういう意味で聖書は自己自身を解釈するものである。
(同、45頁)
聖書は、聖書を通して導く聖霊さまによってこそ、正しい聖書解釈を可能にする、と言います。祈りつつ、信仰をもって、生きて働かれる聖霊さまのご臨在の中に、聖書を読むこと。つまり礼拝の中で聖書を読むこと、がとても大切なことである、ということでしょう。
聖書はそれ自身としてはどこまでも人間の言葉であるが、しかし聖霊の働きにより、神の言葉として人間に迫るんどえある。人間の言葉がそのまま神の言葉になる(werden)と言ってもよい。つまり聖書が神の言葉であるのはどこまでもその都度の出来事なのである。われわれはここで illuminatio(照明)という言葉を使ってもよいであろう。聖書が神の言葉としてわれわれに迫る時に、その都度われわれは聖霊による照明によって、人間の言葉に媒介されながら、神の言葉を聞き取ることができるのである。
(同、59頁)
聖書の言葉が神の言葉であるのは「その都度の出来事」であるというのです。礼拝においての出会いである、といえるのかもしれません。