「キリスト者の自己否定」へのコメント、ありがとうございました。

自分を捨てるということは果たして可能でしょうか?
イエスを信じる事で可能になるのでしょうか?
聖書を読んでいていつもその事が疑問に思えてしまいます。

「キリスト者の自己否定」へのコメントありがとうございました。

この投稿「キリスト者の自己否定」の文章は、日々のデボーションからの黙想を、思いのままに書いているもので、カルバンの言葉からの黙想からだったかと思います。

自分を捨てるということは、この文字通りの意味と理解すると、ずいぶん暴力的で無理な生き方だと、私も思います。

私の場合、自分というものが、自分にとって大きな荷物になってしまっています。それで自分を捨てるということの中に、福音を感じるのです。もちろん自分を、ごみ箱に捨てるのでも、得体のしれない存在に、手渡して自分を生きることを放棄することでもないのです。

自分を自分で支えていかなければならない、ということから自由にしていただくという感じなのです。これは自分のためにいのちを捨てるほどの愛をお持ちのイエスさまを信じることによってのみ可能なのだと思います。イエスさまを信じるということは、イエスさまに信頼して自分自身をゆだねるということですなのですが、いかがでしょうか。

ただご指摘のように「可能であろうか」という問いかけはいつも私のなかにもあるような気がします。

「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」(マタイ19・22~26)

人間には、ざんねんながら不可能なのだと思います。ですからイエスさまを信じ、信頼して、天の御国を目指してつつ、今日の日を自分らしく、誠実に生きていきたいと祈っています。


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