,

待つことをしないこの世の教会

モーセの帰りを待つことのできない民は、アロンに詰め寄って金の子牛を鋳造させ、自分たちの神として崇めた。頼るべきもののない状態、神不在の状態は人間に根本的な不安をもたらす。苦境に立つ人間は、不安から逃れるために頼るべきものを手にしたいと願う。そこで手っ取り早く答えの出る自分の宗教を持とうとする。これがシナイ山の麓で自然発生したアロンの宗教である。アロンが教祖というわけではない。自分の宗教を求めた民衆の一人ひとりが本当は教祖である。まさに事柄を象徴するかのように、自分の身(装身具)から出た金の子牛が突然神性を帯び始めるのも、民衆の依頼心のなせる業なのである。

・・・

神学者ボンヘッファーは、この山の麓の民のあり方を「アロンの教会」と呼んで、まことの神の言葉を聴くためにひたすら神を待ち望む「モーセの教会」をこれに対置させた。自分の意のままになる神を自分で造ろうとする人間のあらゆる宗教的営為は、アロンの教会とならざるをえない。それはキリスト教会においても起こりうる。・・・すなわち「待つことをしないこの世の教会として、見えないものによって生きようとはしないこの世の教会として。自分で自分たちの神を作る教会として。自分たちの気に入るような神を持とうとして、どうしたら神によろこばれるか問おうとはしない教会として」(D・ボンヘッファー『説教』大崎節郎訳、新教出版社、1964年、173-174頁)。

芳賀力、『神学の小径 2』、キリスト新聞社、2012年、134-136頁

待つことをしない、性急に求める、おおよそ祈りにおいて待つことをしないということは、偶像礼拝なのです。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: