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「生きたい」の叫び

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生きるということが当たり前の社会で、私たちは常に生と死の間におかれています。誤解してほしくないのは、彼女の意思表明は、生きたいと思ったからこそのものであること、そして事実生きていたということです。安楽死という希望は彼女が作り出したものではなく、社会が作り出した差別の中で生み出された彼女の叫びなのだと私は思います。

朝日新聞、2020年7月26日(日)1面「ALS患者命の問い」より

旧約聖書の中で絶望の中にあった預言者エリヤについて以下のような文章があります。

アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」

(列王記 上 19・1-4、新共同訳)

このなかで、「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた」という節は、他の訳では以下のようになっています。

「それを聞いたエリヤは恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れて」(共同訳2018)

「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った」(新改訳2017)

つまりエリヤは死にたくなかった、もっと生きたかったのです。そのような願いの中で逃亡したのです。その逃亡した先で神さまがお出会いくださいました。その神さまに祈る言葉が以下の言葉でした。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」

神さまは、このエリヤの願いを聞かれ、そして答えて下さるのですが、「では願い通り命を取ってやろう」と答えられたのではありません。続きを読むと神さまは、エリヤが生きていくことができるように、あたたかく丁寧に導いてくださいました。

死にたいという言葉の中に、生きたいという叫びを、神さまはしっかりと聞いてくださったのです。エリヤも、この神さまならば、との思いの中で「死にたい」と安心して叫んだのでしょう。真実に生かしてくださる、いのちの源(もなもと)である神さまだからこそ、そのように叫んだのでしょう。神さまは、私たちの口びるにのぼる叫びとともに、心の深いところにある叫び、自分自身も気付いていない叫びを聞き、受け止め、導いてくださるお方なのです。


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