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強い者と弱い者が接する場所では何らかの暴力行為が発生しやすいことを大前提として、システムを考えなくてはいけない

自分が人より「上」の立場に立ってしまったときに、「下」にいる人を、支配しようとしたり操作しようとしたりしてしまう気持ちは、恐らく誰にでもある。言うことを簡単に聞かせやすい場所で、自分の支配欲や暴力性に気付いた経験のある人は男女関係なく少なくないと思う。そして教育機関は、大人と子どもという力の差がある個体が集まる密室性の高い場所だ。

(小川たまか、『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』、タバブックス、95頁)

男性保育士を疑えということではなく、強い者と弱い者が接する場所では何らかの暴力行為が発生しやすいことを大前提として、システムを考えなくてはいけないと思う。子どもが子どもであればあるほど、問題が発覚しないリスクは高い。「男性保育士に偏見を持つな」はその通りなんだけど、「ほとんどがいい人なんだから、一部の過剰反応を気にして対処を行う必要はない」ことにするのは大人の責任放棄だ。

(前掲書、96頁)

私は『性犯罪被害者に~』の中にある、「これはレイプではなくてただの性行為だった。そう思いこむことができればこれ以上傷つかなくてすむ」という内省の場面が非常につらかった。つらいと同時に、複雑なことを、ありのままに書いていると感じた。

(前掲書、132頁f)

牧師と信徒の関係にも、支配しようとしたり操作しようとしたりしてしまうことがあることは否めません。どちらがどちらをかは微妙ですが。教会にも暴力行為が発生しにくいシステムが必要です。

それはさておき、性的暴力が行われたところでは、「これはレイプではなくてただの性行為だった。そう思いこむことができればこれ以上傷つかなくてすむ」という被害者のつらい声が出ることを知っていなければならないのだと思いました。この点では私は完全に無知でした。慰安婦問題でも、そこには強い者と弱い者、支配者と支配される者があったわけですから、被害者から上記のような声が出たとしても、それで性犯罪自体が軽くなるわけでも、またなくなるわけでもありません。日本は韓国をはじめ中国、東南アジア、オセアニア、オランダなどの人びとに対しての加害責任、特に性犯罪を改めて明らかにし、衷心から謝罪すべきなのは明らかでしょう。一日本人として心から謝罪したいと思います。また神さまの愛と赦しを語るべきキリスト教界においてさえ、上記の問題がなかったなどという人がいることに戦慄を覚えます。牧師としての力のなさを痛感します。

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引用の三つ目の『性犯罪被害に~』は、

小林美佳、『性犯罪被害にあうということ』、朝日新聞出版、2008年

です。アマゾンで検索するとなぜか「アダルト」に分類されていて年齢を問われました。なぜでしょう?(2019年8月28日現在)


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