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キリストが主であることの確かさに信頼をおくのが信仰である

自分の理解を支えとするのではなく、キリストが主であることの確かさに信頼をおくのが信仰である。つまり、キリストにおける「確信」こそが重要であって、キリスト教徒であることの「自信」ではない。自信過剰の自信はなくしたほうがよい。いや、なくさねばならぬ。しかし、確信はもたねばならないし、失ってはならぬ。「確信過剰」という日本語がないように、確信というものはいくらあってもありすぎるということはない。ことにキリスト秘義という決して究めきることのできない事実の理解をたえまなく深めていくことによって、確信は常により確かなものとされていかなくてはならない。パウロが「自信」とはいわずに、常に「確信」ということばを使うのは、そのためである。

『奥村一郎選集2 多文化に生きる宗教』、222頁

キリスト教信仰において「自信」と「確信」は、似ているようで違う言葉であるということでしょう。英語ではどのように使い分けているのでしょう。

受洗の時の信仰告白において、信じますか、との問いかけに「いまは信じます」という答えをした人がいたといいます。正直と言えば正直なのですが、その信じますは、限りなく「自信」を答えているということでしょう。

確信を持つということは、キリストが主であることの確かさに信頼をおくということである、といいます。確信をもとうとして、自分という個人と絶対他者である神さまとの一対一の関係の中だけで信仰を考えていくと、「自信」ということから抜け出すことができないのではないかと思います。

自信から抜け出して確信を持つためには、どこか自分自身から抜け出すことが必要でしょう。そのためには、自分以外の存在の助けの中に身を委ねる信仰生活が必要ではないかと思います。教会という建物であるとか、十字架という形であるとか、聖餐式においてのパンであるとか杯に注がれているぶどう汁とか、そういう「物素」(substance)は大切なものではないかと思うのです。

それを偶像として退けるとすれば、結局のところ自分から抜け出すことは起こりえず、自分の中の自信を土台とする人間中心の信仰に終始するのではないかと思います。自分を土台とする信仰生活は、砂の上に家を建てる信仰であり、いずれ崩壊することではないでしょうか。


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