実に聖餐において私たちが出会うキリストは、聖霊でもなければ、キリストの霊でもなく「体をもって甦り、天に昇り」かつ体をもって聖餐式の場に現臨するキリストです。聖霊は、あくまでこの体をもって甦って天に昇り、かつ聖餐式に現臨するキリストと私たちとを結びつけるものです。私たちがあずかるのは、聖霊ではなく、現臨するキリストの体と血です。

赤木善光、『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』、教文館、2008年11月1日発行、120頁

未受洗者の陪餐の問題を、礼拝の場における差別の問題に解消しようとしてしまうと、問題の本質が見えなくなってしまい、結果、聖餐の意味や恵みを喪失してしまいます。

それは、受洗者自身が聖餐にあずかるときに、この恵みを見失ってしまっているのかもしれません。そしてそれは聖餐を執行する牧師自身が分からなくなってしまっているのが原因ではないか、と思わされます。

よっぽどカトリック教会のごミサにおける聖餐のほうが聖書的であろうかと思うほどです。


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