自從一出家 一たび出家してより
蹤跡寄雲烟 蹤跡(しょうせき) 雲烟(うんえん)に寄す
或與樵漁混 或は樵漁(しょうぎょ)と混(まじ)り
又共兒童歡 又 児童(じどう)と共に歓(たのし)む
王侯曷足榮 王侯 曷(なん)ぞ栄(えい)とするに足らん
神仙亦非願 神仙も亦(また)願うところに非(あら)ず
所遇便即(旧字)休
遇(あ)うところ便(べん)なれば即(すなわち)ち休(きゅう)す
何必嵩丘山 何ぞ必しも嵩丘(そうきゅう)の山のみならんや
乗彼日新化 彼の日新(にっしん)の化(け)に乗じ
優游可窮年 優游(ゆうゆう) 年を窮(きわ)むべしひとたび出家して以来、わたしは山水を友として気の向くままにふるまってきた。あるときは樵夫(きこり)や漁師にまじり、あるときは子供らと遊んだ。王侯の位なぞわたしになんの関係があろう。神仙の不老長寿もわたしの願うところではない。気に入った所があればしばらくそこに足を留める。ダルマ大師のいられた嵩山ばかりが聖地とは限らない。ともあれ日々に新しくなる自然に身を任せて、それと同じようにわたしも日ごとにまた己を新しくしながら、きれいな気持ちで、しずかに、優游と年をとっていきたいと願っている。
現世におけるしがらみはすべて欲望から生じるのだから、その欲望を棄て、自由になった心を自然にゆだねる。そうすることによって宇宙とともに化する境地にいたる。良寛のこの現世否定は、『一言芳談抄』に記された中世初期浄土門の厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)とはまったくちがっていた。良寛はむしろ現世の人々を愛するために、現世のわずらいの元である所有欲や、権勢欲や、さまざまの欲望を棄て、何にもとらわれぬ身となったのだ。
人の心が、さまざまな欲望やわずらいで一杯になっていたら、そこに自然の入る余地はない。心の中を空にして、何もなくなったとき、そこにおのずから鳥の声や、雲の動きや、渓声や、自然のすべてのものが映しだされる。無だから仏がそこに入ることができる。心の中を年中テレビの刺戟だの、インターネットの情報などで一杯にしていては、仏も神も自然も入ることができない。つねに何事かを求め、欲望実現のために働いていては、心はそのことに限定される。無為の時間を持つことによってはじめて、無限なるものとの交流が可能となる。
良寛はそういう精神についての秘密をよく心得、そのことを生涯にわたって実行した。無為の奥深い自由を味わいつづけた人だ、とわたしは思う。だから、有為の価値ばかりが横行する現代に、その生き方がなんとなく気にかかり、そこにわれわれを閉塞した心の状態から救ってくれるものがあるように思われ、良寛に人は惹かれるのであろう。良寛は現代の価値観と正反対のところにいて、そのことによってわれわれの知らなかった可能性を提示しているのだ。中野孝次、『風の良寛』、集英社、2000年12月20日発行、225-227頁
キリスト教会の在り方、あるいはそこに生きる奉仕者の生き方が、有為を目あてにするものであるかぎり、人間を取り戻すことができないのではないか、と思うことがしばしばあります。