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国を愛するとはこのような正直な言動なのである

 さて。南京とは、日本軍(柳川軍団・東條側)による南京大虐殺のあの南京である。右翼と限らず、「良識ある日本人」である筈の教育者たちの中にも、「南京大虐殺はなかった」「でっちあげ」と明言する人々がまじる。自国のやったことを否定することイコール「国を愛する」表現では決してないのに。むしろ認めて謝罪する正直さこそ人の道。

 柳川軍団は、事変から戦争へと移るころの、日本の陸軍がまっぷたつに割れていたことを熟知する人間ならすぐわかるタカ派の中のタカ派軍団。それに反して、あの大虐殺直前に、兵をひきいて南京の城門までたどりついた松井石根大将(とその指揮下の兵)の目的は、すでに約してあった南京市内での康生智司令官との和平交渉・停戦交渉であったのだ。だからハト派・松井大将は失神せんばかりに驚き、泣いた。柳川軍団がすでになだれのごとく南京城内に押し入って、掠奪・虐殺・強姦の狼藉の限りを犯していたことを知らされて。

 いや、そんなことはなかったと言い張る人のために、当の松井大将が大事件後、日本軍(自分の軍と柳川側もかなりまじる)に対し参謀・朝香宮殿下をも前にして、泣きながら行った演説を、忠実に記した(わが耳で聞き「日本のために」ただちにロイター通信にも流した)当時の同盟通信社(いまの共同通信社)上海支局長・松本重治さん(母の遠縁)の文(『上海時代』中公新書下巻245ページ以下)をかかげる(この一文は陳舜臣さんの『中国の歴史』第14巻にも引用されている)。

 すなわち。予定大変更の南京に、松井最高司令官以下が正式に入城したのは1937年12月17日。ひどい寒さの中を慰霊祭がおごそかに行われたが、「・・・それで終ったかと思っていると、松井最高司令官がつと立ち上がり、(柳川側の将校たちに向かって)演説を始めた・・・『何たることを、おまえたちは、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことではないか。・・・今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならぬ・・・それが、また戦病没者への供養となるであろう』。泣きながら切々と語ったのだった。」

「私(松本)は、心に『松井さん、よくやったなあ』と叫び・・・深堀中佐(軍の報道部長)を顧みて、『日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。・・・松井大将の訓戒のニューズ(ママ)を世界に撒きたい。』」「このニューズの打電」こそは「日本のための最高の貢献になるのですよ。」 ニュース(同盟通信社を通しての)打電を(軍に)ゆるされ、翌日上海から日本にはもちろん、ロイター通信を通し、各国に、上海の「ノースチャイナ・デイリーニュース」にも流された。虐殺暴行の当事者・日本からの正直なニュース(日本では伝えられず)が、あの当時どれほどに英米仏諸国に評価されたことか(同252ページ)。
 国を愛するとはこのような正直な言動なのである。

犬養道子、『歴史随想パッチワーク』、中央公論新社、2008年3月10日発行、233-235頁

民族や国籍を超えて互いに赦しあい、愛しあうことのできる世界を築いていかなければなりません。

インターネットという無法地帯に流されている玉石混淆の情報に、私たちはそれぞれに流されています。流され方は、その人の人となりや心の傷、コンプレックスと深くかかわっているのかもしれません。流されないようにしなければなりません。


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