宗教改革の視点によれば、人間が直面する最も基本的な問題は、神の御前での自らの罪責の問題である。神の御前では人間の罪と不従順をどのような人間の功績や道徳的な行為によっても償うことはできない。神の聖なる律法の要求に対する自らの従順を基盤として、神の愛顧を見出すことは誰もできない。十字架の上でのキリストの完璧な従順と犠牲としての死だけが、神の正義の要求を満たし、信仰者の神の御前における正しい立場を確保することができる。
・・・
新しい視点が、パウロの福音理解の幾つかの重要な局面を明らかにしたことは認めてよいかもしれない。しかし、パウロの福音に関して宗教改革の解釈よりも満足のいく解釈をもたらしているという新しい視点の主張は、良くても誇張に思われ、最悪の場合は明らかに間違っているように思われる。
宗教改革の視点は、聖書的かつ神学的に満足のあるかたちで、キリスト教の福音の重要な主題の一つをとらえ続けている。すなわちキリストのために、正しい者をではなく不敬虔な者を義と認める神の驚くべき恵みをである。コーリネス・P・ベネマ、『「パウロ研究の新しい視点」再考』、いのちのことば社、2018年10月1日、94f頁
N・T・ライトという神学の先生が、たくさんの本を書いておられ、私の本棚にも何冊が置かれています。しっかりと読んでいるわけでありませんが、なんとなく心惹かれる内容に思えます。この神学者の書くことについて、批判的な視点での書物が『「パウロ研究の新しい視点」再考』(コーリネス・P・ベネマ著)です。上記にその中からの一節を引用しました。私には少し難しい文章なのですが、この「再考」で指摘しようとしていることは、ライトたちの「新しい視点」が「信仰のみによる義認」を揺さぶっているということでしょうか。
少し別の文章を引用してみたいと思います。以下の文章は、1999年10月31日に、南ドイツのアウグスブルクにおいて、カトリック教会とルーテル教会が調印した共同宣言からです。日本のカトリック教会と日本福音ルーテル教会とが共同で翻訳したもので、その中から「義認に関する共通理解の解明」の項からのものです。
四・3 信仰により、恵みのゆえの義認
25 われわれは共にこう告白する。罪人はキリストにおける神の救いの行為を信じる信仰によって義とされる。この救いは、洗礼において聖霊によってキリスト教的いのち全体の基礎として与えられる。人間は義とする信仰によって神の恵み深い約束に対して信頼を置くが、この信仰は神への希望と愛とを含む。この信仰は愛において行動的となる。それゆえキリスト者は実践がないままにとどまることはありえず、そうあってはならない。しかしながら、人間のうちで信仰の自由な賜物に先行したり、あるいは後から伴ったりするものはすべて、義認の根拠ではなく、義認をもたらすものではない。
26 ルーテル側の理解によれば、神は信仰においてのみ(sola fide)罪人を義とする。信仰において人間は、自らの創造主であって贖い主である神にすべてを委ね、このようにして神との交わりの内にいる。神は、創造的なみ言葉によって、そのような信頼をもたらすとき、信仰を造り出す。神のこの行為は新しい創造であるから、それは人間のあらゆる次元に影響を及ぼし、希望と愛におけるいのちへと導く。「信仰によってのみ義とされる」という教理においては、義認に必ず伴い、しかもそれなしには信仰が存在し得ないいのちの刷新は、義認から区別されるが、義認とは分離されない。むしろ、そうすることによって、そこからいのちの刷新が現れ出る基礎が示されている。なぜなら、義認において人間に与えられる神の愛から、いのちの刷新が成長するからである。義認と刷新とは、信仰において現臨しているキリストにおいて結びつけられている。
27 カトリック側の理解によってもまた、信仰は義認において根本的なものであると見る。なぜなら、信仰なしには義認はありえないからである。人間はみ言葉を聴く者として、またそれを信じる者として、洗礼を通して義とされる。罪人の義認とは、義とする恵みによる罪の赦しと義化である。それがわれわれを神の子とする。義認において、義人はキリストから信仰と希望と愛とを受け取り、それによってキリストとの交わりに加えられる。神との、新しいこの人格的な関係は神の恵み深さに全面的に基礎づけられ、この恵み深い神の行う救いを創造する働きに常に依存し続ける。この神はご自身に対して真実であり続けるので、人間は神に自分を委ねきることができる。それゆえ義とする恵みは、それをもてるように神に訴えることができる人間的所有物には決してならない。カトリック的理解において、義とする恵みによるいのちの刷新が強調されるが、信仰と希望と愛におけるこの刷新は常に神の計りしれない恵みに依拠し、義認に向けて神の前で誇ることができるような貢献をわれわれは何も行うことができない(ローマ3・27)。
『義認の教理に関する共同宣言』、ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳、教文館、2004年10月31日、37-39頁
これを読むと、ルーテル側の見解の中にある「それなしには信仰が存在し得ないいのちの刷新は、義認から区別されるが、義認とは分離されない」ということばをよく理解すればよいのではないかという気がします。ライトたちの「新しい視点」は、内容は違うにしても、カトリックとプロテスタント両者の距離を小さくしようとする心があるように思いますが、「再考」の方は、その距離を際立たせようとする心があるように思えますが、いかがでしょうか。