<日本も自衛隊を作り、年々国費を増やして増強を図っておりますが、いつか再び戦争を予想していることと思う。もっとも自衛力を少しも持たずにいることは安心出来ないが、戦争までやるようなことは絶対に無いようにして貰いたい。どれほどの国民が犠牲になって我が故郷の土を踏むことが出来ず、親子にも会うこともなく異国の丘に消えて行った何十万の戦友を思えば、自然と涙が流れるのであります。>
これは28年前の1988年に書かれたものである。
(清水潔、『「南京事件」を調査せよ』、文藝春秋、2016年8月25日発行、275頁)
これはもと上等兵のメモだそうです。ちょっと文章的にととのっていないのかもしれませんが、それが真実を伝えているようにも感じます。
聖書の中に「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(ヨハネ11・50)という大祭司カヤパのことばがあります。この本のなかにも、国を守るために国民はすべて特高に出撃すべき、戦争に負けても国は残る、という軍部の高官のことばがありました。国民主権の現代においては理解に苦しむことがですが、国民主権ではない世界では、成り立つ考え方なのでしょう。
南京事件はなかった、ねつ造だといことを平気で主張する人がいます。ネット情報に踊らされているだけだと思いますが、ネットには双方の情報が出ているのですから、その中でねつ造の意見を選択しているところには、人間の心の闇があるのかもしれません。
この本を読めば、南京事件をねつ造だ、などといっていることが、どんなに愚かで恥ずかしいことであることかわかってきます。
兵を戦地に送り込むのは国家であろう。しかし戦い、傷つき、家族を失い、苦しむのは、結局は個々の人間だ。国家がその苦しみを救えるはずもない。ならば宿命を背負うか、謝罪するか、最後に決めざるを得ないのは、私達個々ではないか。
それぞれが歴史に学び、事実を知り、憂い、死者に黙禱せずしてどうするのか。
そうして二度と国を破滅の危機に追い込まぬことこそが、本当の意味の愛国心ではないのか。
それこそが「国を守る」ということではないのか。
(前掲書、270頁)