聖書は同性愛を禁止していると、主張する人がいますが、どうもそうではないようです。
同性愛について語っているのではないかと思われる聖書の個所は、以下のとおりです。
・創世記1~2章
・創世記19章1~9節。(参照、士師記19章、エゼキエル書16章46~56節)
・レビ記18章22節、20章13節。
・ローマ1章26~27節
・第1コリント6章9節
・第1テモテ1章10節
(ジェフリー・S.サイカー編、『キリスト教は同性愛を受けいれられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年、282頁)
この中でローマ1章26~27節に関しては以下の通りです。
「それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」(ローマ1・26、27、共同訳)
「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1・26,27、新改訳2017)
この聖書の個所をジェフリー・S.サイカーは以下のように解釈します。
「パウロはここでもっぱらペデラスティ(成人の「能動的」な男性と若い「受動的」な少年)と男性売春の慣行について語っているのである。どちらも、パウロと同時代のギリシア・ローマの道徳家たちが論ずるようになった主題である。パウロの観点からすれば、ペデラスティと男性売春は、異性愛者(それがパウロの考えていたすべてである―もっとも、そもそも同性愛か異性愛かという区別自体が彼の思考になかった可能性が高い)である異邦人が意図的に犯す罪なのであって、彼らが神を拒み偶像を拝むことの一表現でありその結果であるに他ならない(これが基本的にローマ一章の論理でもある)。」(同、283頁)
「パウロが問題にしていたのは、搾取的と思われる関係(それは偶像崇拝の表現である)や唯一の真の神を拒むことであった。これに対して、今日の同性愛関係は、異性愛関係と比較してみても、みな必ず搾取的な関係であるというわけではない。」(同、284頁)
結論から言うと、ローマ1・26,27は同性愛を禁止ている個所ではないということです。
同性愛か異性愛かで区別して同性愛を断罪しているのではなく、自然な関係か搾取的な関係かどうかで区別して搾取的な関係を断罪しているのです。情欲に燃えるということが搾取的な関係であり、それこそ偶像礼拝であるということです。
偶像礼拝とは、たんに異教の神々を拝むということではなく、自分の欲望の実現のために信仰するということをいいます。イエスさまイエスさまといいつつも、それが自分の欲望の実現のために信仰しているのであれば、偶像礼拝をしているのです。偶像礼拝としているということは真の神を拒むことです。
異性愛であってもそれが搾取的な関係であれば、偶像礼拝で罪ですが、同性愛であってもそれが自然な関係であれば、罪ではありません。それが聖書の主張するところ、ということですね。