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ヨハネの福音書11章17節考

このところ日曜日はヨハネの福音書の講解説教となっています。
先日の個所で少し気になったことがありました。

ヨハネの福音書11章はラザロの生きかえりが書かれているところです。イエスさまは連絡を受けてなお二日とどまられたのち、ラザロのいるベタニヤ村に向かわれます。ベタニヤ村に到着されても、イエスさまはまだ村には入られません。村の外で、ラザロの兄弟であるマルタ、マリア、それぞれと一対一の対話をされました。その大切な対話に先立ち17節があります。
2018年12月に発刊された共同訳では
「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた。」とあります。

17節の原文ギリシャ語にはイエスさまの行動を説明する動詞として「ヘゥレン」という単語があります。これは原型が「ヘゥリスコー」で、意味は「見いだす、出会う、悟る、認める」といった意味を持っている言葉です。つまりイエスさまはここでベタニヤ村に来られて、墓に入れられて四日経っているラザロをご覧になられた、という意味になります。まだ村に入っておられないにも関わらず、葬られたラザロをご覧になっている。肉体の目で見るという意味以上に、村全体に垂れこめている「死」そのものに対峙しておられる。そうしてマルタ、マリアとの対話に進んでいかれる、という感じです。
ですからこの「見る」という意味を持たせて「御覧になると」と訳されています。
他の訳を比較してみると、

  • 新共同訳「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」
  • 口語訳「さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。」
  • フランシスコ会口語(2011年)「さて、イエスが行って、ご覧になると、ラザロが墓に葬られてからすでに四日もたっていた。」
  • 文語訳「さてイエス来り見給へば、ラザロの墓にあること、既に四日なりき。」
  • NKJV「So when Jesus came, He found that he had already been in the tomb four days.」

いずれも、「ご覧になる」「見る、発見する」という意味を含んで訳されています。
イエスさまは、死の悲しみ、苦しみ、痛みをまっすぐに見つめていてくださいます。だれよりも死の痛みをご存じの上で十字架に向かわれます。

ところで、福音派の翻訳による新改訳という翻訳聖書があります。

  • 新改訳第3版「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。」
  • 新改訳2017「イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。」

第3版の「みると」は「見る」という意味ではなく「試す」という意味で理解されているようなふしがあります。2017年版では、訳出されていないように思われます。

この福音派の翻訳聖書は、礼拝で使用してよいのかどうか、少し不安になりました。


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