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われらがあなたのいましめを果たせるようにしてください

みことばをわれらの心にしるし、われらが人々と交わる時に、つねに、いかなる目にもわれらを助け、われらがあなたのいましめを果たせるようにしてください。いましめは果たされるために与えられているのです。われら愚かな、罪ある人間によって、あなたのいましめが果たされるべきなのです。それはわれらが完全なものとなり、われらの罪がゆるされ、すべてのがあなたの眼前にあって正されるためです。主なる神よ、われらの神よ、われらのかたわらにとどまってください!

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、264頁

〔「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」〕(マタイ5・17~20)

2018年11月24日(土)

救いは信仰のみによって与えられる、という宗教改革の主張は、聖書の主張そのものであると思います。しかしそれは行いはどうでもよいといっているのではありません。イエスさまは、主にある者の義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ天国に入ることができない、と言われました。信仰に生きるということは、それが真実の信仰であれば必ず行いが伴うということでしょう。行いの伴わない信仰は死んだものなのです。主にある者は、すでに義とされ完全に救われて天国への確かな希望を頂いています。完全に神の子です。しかしそれと同時に完全なものと「なる」という道に生かされています。
宗教改革における主張は、当時の教会の偏り過ぎた在り方に対して、逆の方向を強調したことですから、強調された逆の方向をもって聖書の主張のすべてであるとするのは、聖書の誤った読み方ではないかと思います。すなわち行いに偏り過ぎた教会にあり方に対して、信仰のみを主張することは、宗教改革当時においては大切なことであったかもしれませんが、それをもって行いはどうでもよいと主張することは、いかがなものでしょうか。


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