主よ、われらの神よ、み恵みがわれらの心を支配し、あなたの愛がわれらに及び、もろもろの約束の栄光ある成就をもたらしてください。そのことによってわれらが互いに交わりをなし、あなたをたたえ、われらの時代にあってあなたを拝み、あなたのものであり、あなたが救いをもたらしてくださる民となるようにしてください。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、256f頁
〔更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。〕(黙示録1・5,6)
2018年11月14日(水)
神さまの恵みによって私たちの心が支配されること。神さまの愛が私たちに及ぶこと。もろもろの約束の栄光ある成就がもたらされること。
そうして、私たちの交わりや礼拝が生まれます。そうして、私たちが神さまのものであり、神さまが救いをもたらしてくださる民となるのです。
黙示録1章5節は新共同訳では4節と一緒に訳されていますので、どこから5節が始まるのかが分からないのですが、原文から推測すると上記のような感じではないかと思います。イエスさまは、証人であり、誠実な方であり、死者の中から最初に復活した方であり、地上の王たちの支配者です。私たちはこのお方に栄光と力が世々限りなくあるようにと祈ります。このお方が、私たちを愛し、十字架によって私たちを罪から解放し、私たちを王としてくださり、父なる神さまに仕える祭司としてくださいました。
このイエスさまへの礼拝生活が私たちに祝福をもたらすのです。
日々神さまを礼拝することを喜びとします。いつもともにいてくださるイエスさまを仰ぎ見、イエスさまのみこころを求めることを喜びとします。そのような人生に神さまの豊かな祝福が注がれます。
そのような礼拝生活を確かなものとするのは、主日の礼拝です。主日である日曜日を礼拝の日として聖別するのです。忙しい現代に生きる私たちは、日曜日といってもさまざまな事情の中に生きています。ですから文字通り礼拝日として教会の礼拝に通うことが難しいこともあるでしょう。しかしそれは二千年の昔も同じです。先輩のキリスト者は、早朝に、またすべての仕事を終えて共に集い、三位一体の神さまを礼拝し、互いに交わりをしました。そこが祝福の出発と信じたからです。また神さまへの愛の深さ広さ、激しさを知った彼らはそうせずにはいられなかったのです。
自由と放縦とがないまぜとなった私たちは、自分勝手な自由を求めて不自由の中に縛られていきます。私たちは自分の都合で礼拝日をも自由に支配することができてしまいます。しかし神さまのご支配の中に身を置いてこそ、まことの自由の中に生きることができるのです。そうして神さまの豊かな祝福の中に生きることができるのです。
礼拝日を大切にしないところには、残念ながら神さまの祝福があるとはいえません。