ほんとうによろこんでいます。よろこばしい感謝を抱いて、あなたの子としてよろこびを心に抱いて、安息にはいりたいと願うのです。それが昼も夜もわれらの礼拝なのです。あなたはそれ以上のことを欲してはおられないのです。ただこのことに誠実でありたいとわれらは願います。われらはよろこびたいのです。自分の人生をよろこびをもって見つめたいのです。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、242f頁
〔万軍の神、主よ/誰があなたのような威力を持つでしょう。主よ、あなたの真実は/あなたを取り囲んでいます。・・・いかに幸いなことでしょう/勝利の叫びを知る民は。主よ、御顔の光の中を彼らは歩きます。〕(詩編89・9~16)
2018年10月29日(月)
よろこび。神さまは、私たちが喜んで生きることを誰よりも願っていてくださいます。喜んで生きること、そのものが神さまへの礼拝です。神さまに造られた私たちは、この一点に誠実に生きたいと思います。人生そのものを、よろこびをもって見つめたいと思います。受け入れたいと思います。
藤木正三先生のことばを思い出しました。
どれほど深い信仰でも、そこに喜びがなければおかしいと考えるべきでしょう。
どれほど熱心な奉仕でも、そこに喜びがなけれぱおかしいと考えるべきでしょう。
どれほど正しい生活でも、そこに喜びがなけれぱやはりおかしいと考えるべきでしょう。
喜びとは、ことの真偽を判別する大切な基準です。
喜びのない深さは自己満足している深刻さなのです。
喜びのない熱心さは報いを求める不平なのです。
喜びのない正しさも他を裁く誇りに過ぎないのです。
いずれにしても喜びのないものは、全て未熟であると考えて間違いはありません。
(藤木正三、『神の風景』より)